「鉄道の旅人」さんのブログ一覧
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2020年05月29日 22:34 コメント 12 件 廃止路線を観光資源に(=゚ω゚)ノ
さて、本日はかつて秋田県北部の比内地鶏と秋田犬で有名な大館市と鹿角郡小坂町を結んでいた小坂鉄道というローカル私鉄の話でございます(=゚ω゚)ノ 小坂鉄道の開業は1909年(明治42)、小坂町は鉱山の町で鉱石等の輸送が目的でした。旅客営業も行ってはいましたが、どちらかと言えば貨物輸送が主体の鉄道会社だったでしょう。 1994年(平成6)9月で旅客営業が廃止されて貨物専用線となりました。その後は鉱山が閉山となり、精錬していた濃硫酸の輸送をしていました。それからリサイクル産業に手を出してトラック輸送が中心となり、貨物輸送も2009年(平成21)に廃止となってしまいましたね( ;∀;) 僕が訪問したのは1994年(平成6)4月、旅客営業廃止の約半年前になります。大館駅周辺と小坂駅周辺は町や田んぼが多い印象でしたが、それ以外は山の中を走るという印象でした。 廃線跡のレール等の敷地の一部は沿線の大館市と小坂町に無償譲渡され、小坂町は旧小坂駅構内を整備して2014年(平成26)に鉄道を見て、学んで、体験してもらうための施設である小坂鉄道レールパークをオープンさせました。そして大館市の敷地と小坂町の他の敷地でレールバイクという保線用の軌道自転車に乗って走って体験してもらうということを行っています。 それから小坂鉄道レールパークには、2014年(平成26)で定期運行が終了したブルートレイン「あけぼの」が保存されていて、なんとそこに宿泊することができます。 以前、全国のあちらこちらに走っていたブルートレインの雰囲気が味わえるわけです(●^o^●) 他にも小坂鉄道レールパークの近くには、鉱山の従業員やその家族のために建てられた芝居小屋である「康楽館」や「小坂鉱山事務所」といった小坂鉱山が繁栄していたことを示す建物が残されていて、見学してみるのも面白いかもしれません。 生活路線としての小坂鉄道は無くなってしまいましたが、小坂鉄道レールパークにはその頃が思い浮かぶものがあるかもしれません。 また訪問してみたいですね~、ブルートレイン「あけぼの」に泊まってみたいものです(^ω^)
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2020年05月26日 21:10 コメント 7 件 経営状況がまずくて毎日がサバイバル⁉
コロナウィルスの影響による非常事態宣言は全面的に解除の運びとなりました。 その間の自粛要請によって経済面にかなりの影響を及ぼしていて、特にサービス業は顕著に表れています。第二波の恐れもあることから、まだまだ手探り状態で直ぐに回復するとは思えない状態ですね(;^ω^) 鉄道のような交通輸送関係はほとんどが前年比90%ぐらいの減収減益になっています。本州のJR三社はそれぐらいですので、地方の中小私鉄は相当キツイと思われます。それでもあの手この手で奮闘していることでしょう。 そんな奮闘している中小私鉄のなかでも千葉県の銚子電鉄はとてもユニークなのではないでしょうか(^ω^) 銚子電鉄は千葉県の銚子市内を走る鉄道でして、JRの銚子駅から更に東の外川駅まで結ぶ6.4kmの路線です(=゚ω゚)ノ 開業は1913年(大正2)に銚子遊覧鉄道によるものでした。しかし1917年(大正6)に廃止となってしまいました。でもこの後の1923年(大正12)に銚子鉄道として復活しております。 この銚子電鉄は昔から経営は楽なものではなかったですが、副業によって何度も乗り切ってきたところですね。有名なのが「ぬれ煎餅」の販売ですよね!(^^)! 最近は「ぬれ煎餅」の人気が落ち着いてきたことから、他にも商品開発をしているようです。 1枚目にWordでまとめてみました。(なお写真等の素材は全てネットから検索して拝借しました) 結構名が知れてきているのが「まずい棒」でしょうか、とある商品とよく似ているものです(≧▽≦) あと毎日がサバイバルということで「鯖威張るカレー」とか、経営に穴があいたということで「穴あきマフラー」というのがあります。これらの商品は銚子電鉄のオンラインショップで手に入れることができます。これを読んで興味を持った方は是非検索してオンラインショップをのぞいてみてはいかがでしょうか(=゚ω゚)ノ さて僕はこの銚子電鉄に2005年(平成17)9月9日に訪問しております。2枚目と3枚目の写真はその時に撮影したもののコラージュ写真です。 なおネーミングライツによって現在全駅には愛称がついており、 「笠上黒生」は「髪毛黒生」、「外川」は「ありがとう外川」となっています。 ユニークな銚子電鉄に再び訪問する機会を作りたいものです(^^♪
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2020年05月22日 22:25 コメント 8 件 ようこそ、元祖レールバスへ(=゚ω゚)ノ
今度は関西から東北へ、青森県にかつてあった鉄道です\(^o^)/ その名前は南部縦貫鉄道と言います。 青森県の陸奥湾奥にあります野辺地町から内陸部の七戸町を結ぶ20.9㎞の路線でした。 開業したのは1962年(昭和37)でこの時は国鉄東北本線野辺地ではなく、一つ手前になる千曳というところでした。 天間林村で採掘される砂鉄輸送が目的で開業したという話です。ところが海外から安価な鉄鉱石の輸入が始まり、砂鉄から製鉄する意味がなくなって輸送計画は中止となりました。これにより収入が4割減となった挙句、旅客収入も当初から少なかったとのこと。 それで経営がピンチとなって1966年(昭和41)に会社更生法の適用を申請して更生会社として出発しました。 1968年(昭和43)東北本線が千曳ー野辺地間のルートの変更の際にのこった旧線を無償で借り入れて野辺地まで乗り入れました。その時に千曳は西千曳に改称されました。 それからも鉄道は苦しい経営でしたが、関連事業で何とか乗り切っていたみたいです。 1987年(昭和62)国鉄がJRになり、国鉄の赤字を返済するために国鉄清算事業団というのができるのですが、そこから借りていた西千曳ー野辺地間の土地を買い取ってくれと言ってきました。 維持費払うので精一杯なのが土地を買ってくれと言われたので、そんな余裕はないという感じで1997年(平成9)の5月5日が決定しました。 ところが廃止が決定すると、全国から人が押し寄せたのだそうです。加えてルートははっきり決まってなかったものの付近に東北新幹線の駅ができるということで、新幹線連絡線の役割を模索する関係もあり廃止ではなく休止という形になりました。 その後休止を延長していましたけど、とうとう我慢できなくなって2002年(平成14)8月1日で正式に廃止となりました( ;∀;) ちなみに東北新幹線が八戸から新青森まで延伸されたのは2010年(平成22)で南部縦貫鉄道のルート付近には七戸十和田駅が開業してオリマス。 現在ですが、南部縦貫として会社は存続しており旧七戸駅舎が本社となっております。駅構内と実際に走っていたレールバスが保存されていて土日は見学ができるようです。 新幹線開業まで頑張ることができたとしたら、近代的な路線になっていたかもしれませんね(._.)
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2020年05月19日 21:16 コメント 6 件 「べっぷ」じゃないよ「べふ」だよん。
暫く中部地区の名鉄の廃止路線の話をしていました。 中部地区以外でも今は無き路線の写真も沢山あったので今度はその話もしてみることにしましょう(=゚ω゚)ノ 兵庫県の加古川付近に1980年代まで別府(べふ)鉄道という貨物輸送が主体の鉄道が走っておりました。1枚目の写真に路線図を添付してみました。別府港から国鉄高砂線(1984年12月1日に廃止)の野口までの野口線と山陽本線の土山駅までの土山線の路線を所有しておりました。学生時代に一度だけ乗ったことがあり、写真を4枚だけ撮影していたのが残っておりました。 別府鉄道は創業時の名前を別府軽便鉄道と言い、1921年(大正10)に野口線が、1923年(大正12)に土山線が開業しました。 元々は多木化学の肥料製品を積みだすための鉄道だったようです。 野口線の終点である野口駅は国鉄に乗り入れる線が無かったので旅客主体の路線となり、貨物輸送の方は山陽本線に直接つながる土山線がその役割を担っていました。 使われた車両は3枚目のコラージュ写真でして、野口線の車両が右上、土山線で使われたのが左下の物です。土山線は貨物と客車の混合でこれを機関車が牽引していた形です。 貨物輸送がトラックが主体に移ったり、国鉄が貨物の合理化を進めたのに影響を受けて1984年(昭和59)1月末に全線廃止となってしまいました( ;∀;) ここに訪問したのは入場券の日付を参照すると1982年(昭和57)の3月になります、高校生のころですね(#^^#) 多分春休みで青春18きっぷを使って旅行していて立ち寄ったのだと思います。3枚目の写真にある野口線を走るキハ2号は前に荷台が付いていて珍しいものでしたし、土山線の貨車と客車の混合で走るというのも当時はある意味新鮮な感じがしたものでした。 さて別府鉄道の廃止後ですが、バス転換はされることはなかったようです。路線跡地の大半は遊歩道として整備されています。 野口線の円長寺駅跡地が公園となっているらしく、そこには3枚目のコラージュ写真右上にありますキハ2号が保存されています。所々に鉄道があったことを思わせる記念碑の様なものがあるようです。 遊歩道を歩いて思いをはせてみるのもいいかもしれませんね(^ω^)
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2020年05月15日 21:25 コメント 12 件 多分、この日が初体験かもね(#^.^#)
さて、早速ですが今回の1枚目の写真(=゚ω゚)ノ この写真は名鉄瀬戸線が名古屋城のお堀を通って堀川というところまで走っていた頃に堀川駅で撮影したものです。 日付は1976年(昭和51)2月11日で、この日は栄町駅乗り入れの工事の関係で2月14日の廃止になる数日前でした。 電車の横にいる少年二人ですが、実は小学校5年生の僕と友達でアリマス、ちなみに僕は電車のすぐ右側の子です(#^^#) 何がきっかけになったのか覚えていませんがうちの父に連れていってもらいました。 僕が鉄道に興味を持ったのは小学校低学年の頃だと記憶しています。うちの父は時刻表を買ってきてくれたり、会社の知り合いから色々と切符をもらってきてくれていたのでこの頃はもう数年たってますね。 そして今回使用した写真は、1枚目と2枚目のGIF動画に浸かった写真の中で電車が橋をくぐる3枚の写真はうちの父が撮影して残りは僕が撮影しました(#^^#) 多分自分自身で鉄道写真を撮ったのはこの時が初めてになります。 2枚目のGIF動画は「ガントレット」という非常に珍しいものなんです。橋の部分は複線の用地を確保することができなかったので、複線を単線のように1か所に絞り込んで作ったものです。 何んというか、この橋の部分だけはポイント切り替えしているのではなく重なっているわけですね。 当時で日本で唯一と言われていたので、廃止された今日では存在していないはずです。 皆さん写真を見て「おやっ!」と思った方がいるかもしれません、そう撮影されている方は線路の中に入ってきているんですよ。確か僕たちも堀川駅まで電車で行って、そこから線路を歩いて戻りつつ撮影したものでした。線路に降りて撮影しているすぐ横を電車が通って行ったりするわけです。 勿論所々に係員はいましたね、長閑な時代だったことがわかります(●´ω`●) 今では絶対に考えられないことでしょうね(・_・) そして2月14日の廃止日だけの1日乗車券を買ってもらって、廃止日は乗りにいったものでした。 初めて鉄道写真を撮影した思い出でございます(=゚ω゚)ノ
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2020年05月12日 21:16 コメント 9 件 名鉄線の廃線の思い出……美濃町線③
名鉄美濃町線廃止後ですが並行してバス路線があったので、全線廃止になった後は並行しているバス路線を増強する形となりました。 1999年(平成11)に新関ー美濃間が廃止になった時は、長良川鉄道が並行して走っていたので駅を増設して代替交通機関としていましたね( ..)φ 美濃町線は路面電車がそのまま郊外まで運転されるという形でしたね。昔はこんな感じの風景はよくあったようです。 他の路線とはまた違うローカルムード満点の路線の様な気がします。そんな写真を自分で撮ってみたかったのですが、残念ながら叶わなかったのでネットから「これぞ美濃町線(=゚ω゚)ノ」という雰囲気がある写真を選んで拝借してからコラージュ写真にして2枚目に添付させてもらいました。 2005年まで、こんな風景を見ることができたというのは驚きだった気がします(鳥居と電車の写真は1999年に廃止になったところです)。 3枚目のコラージュ写真に揖斐線の時と同じように、廃止されたあとの車両の譲渡先をまとめてみました(=゚ω゚)ノ 880形は全5編成が福井鉄道へ譲渡されました。福井鉄道は福井市内の路面区間に古い郊外型電車が乗り入れていたところなんですが、770形と合わせて譲渡されたことにより電車が新しくなり郊外の駅のホームが路面区間の駅のようにホームが低くなってバリアフリー化が進んでいきました。800形は福井鉄道と豊橋鉄道に譲渡されました。のちに福井鉄道に譲渡された800形は豊橋鉄道に再譲渡されて全編成が活躍中です。800形は登場して5年の新車でしたから、活躍の場が与えられてなによりでした。 あと5編成あった590形の中で、冷房化改造された2編成が高知市のとさでん交通へ譲渡されました。870形と600形は譲渡先が無く廃車となってしまいました。 名鉄は短絡線を敷いて新岐阜まで直接乗り入れたり、1時間に4本ペースのダイヤを組んだりとかなり積極的にやっていましたが、赤字を解消できず廃止となってしまいましたね( ;∀;) 当時は路面電車が見直され始めた頃だったのですが、岐阜市は支援するための存続に消極的だったとのこと。 何んと言いますか、企業と利用者と自治体が上手くかみ合わずに廃止という結果になってしまった気がしますね。 岐阜の場合は残念な結果となってしまった感じであります(=_=)
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2020年05月08日 21:23 コメント 6 件 名鉄線の廃線の思い出……美濃町線②
ではでは、今回は美濃町線で使われていた車両を紹介してみましょう(=゚ω゚)ノ 写真1枚目…赤いのがモ880形 1980年(昭和55)に5編成10両が導入された新岐阜乗り入れ用の電車です。美濃町線は電圧が600Vで短絡線で入る各務ヶ原線は電圧が1500Vと異なるので、両方に対応できる装備を持っております。 白いのはモ800形 2000年(平成12)に3編成が新岐阜乗り入れ用として導入されました。600V区間でも1500V区間でも対応ができ、部分低床車というかなり意欲的な車両だと思いますね。 写真2枚目…右側の面長なマスクなのがモ600形 1970年(昭和45)に競輪場前ー田神間に短絡線が設けられて、新岐阜駅までの直通運転をするための車両として新造されたもの。 1971年(昭和46)に鉄道友の会から「ローレル賞」というものを受賞した車両です。 左側はモ590形です。 1957年(昭和32)に5編成導入されて、岐阜市内の路面電車や美濃町線を走ったもの。こちらの電車は新岐阜駅に乗り入れる対応はしていないので新関ー美濃間があった頃はそこで使われたり、徹明町方面への運用に使われました。 写真3枚目…モ870形と言います。 (この電車だけ撮影できなかったのでネットから拝借(=゚ω゚)ノ) 1976年(昭和51)に札幌市交通局から3編成購入したもの。導入当初は新岐阜に乗り入れる機能は無かったので、徹明町発着で使用していました。この車両も2000年(平成12)に新岐阜に乗り入れができるように改造されました。 それでは次回のブログも美濃町線の話でゴザイマス!(^^)!
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2020年05月05日 21:01 コメント 7 件 名鉄線の廃線の思い出……美濃町線①
名鉄の岐阜地区600V線区と言われた地域で、美濃町線という岐阜市の中心地から刃物の町関市や、和紙で有名な美濃市を結ぶ約24kmの路面電車の路線がかつてありました(=゚ω゚)ノ 美濃町線は美濃電気軌道の手により1911年(明治44)2月に神田町ー上有知(こうずち)間が開通したのが始まりです。神田町とは現在の岐阜市の柳ケ瀬になります。 そして1911年4月に上有知町が美濃町への変更に伴って、駅名が「美濃町」に改称されました。1930年(昭和5)に美濃電気軌道は名古屋鉄道と合併しました。 1950年(昭和25)には岐阜柳ケ瀬だった起点を徹明町に変更しました。その後美濃町が1954年(昭和29)に市制施行に伴って終点を美濃に改称しました。 1970年(昭和45)競輪場前駅から各務ヶ原線の田神駅まで新線を設けて新岐阜駅までの直通運転が開始されました。 しかしながら乗客減少により、1999年(平成11)に長良川鉄道との並行部分である新関ー美濃間が廃止されました。その際に名鉄の新関駅と長良川鉄道の関駅とは少し離れていたので、そこまで乗り入れる新線を作って名鉄の関駅が設置されました。 その後も利用客は減少し、結局は2005年(平成17)に残った路線も全て廃止となってしまいました( ;∀;) 本日の添付写真 1枚目……Wordで美濃町線の路線図を作ってみました(=゚ω゚)ノ 2枚目……新関駅舎と関駅です。関駅は待合室があって、平面に線が引かれたものです。暗くてわかりづらいですが、この奥の方に長良川鉄道の関駅があります。 特徴のある電車が止まってますが、この電車の紹介は次回のブログでします。 新関駅舎の現在は解体されて住宅街になっているようで、駅があった形跡が無いようです。 3枚目……1999年まで終着駅だった美濃駅です。実は美濃駅は3回移転しており、この駅舎は1923年(大正12)にできた3代目となります。 現在この駅とホームは保存されていて、かつてのホームには美濃町線を走っていた車両が保存されています。 次回は車両について紹介しましょう(=゚ω゚)ノ
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2020年05月01日 21:16 コメント 5 件 名鉄線の廃線の思い出……揖斐線③
さて谷汲線は代替バスも廃止になってしまいましたが、揖斐線の方はほぼ同じルートをバスでたどることができるようです。 岐阜バスが名鉄岐阜駅から黒野駅があった大野町の役場の前にある大野バスセンターまでと、揖斐川町のコミュニティバスが大野バスセンターから本揖斐を経由して養老鉄道揖斐駅までの路線があるようです。 本数としては電車時代よりも減っている感じですね(=_=) 名鉄揖斐線には、ちょっと面白い名前の駅があったので2枚目にコラージュ写真にしてみました。 「又丸(またまる)」「尻毛(しっけ)」と読みます(=゚ω゚)ノ 「又丸」の由来は不明ですが、「尻毛」は「湿気」からきているらしいです。伊自良川と鳥羽川の合流地点の湿地帯だったとのこと。 モ750形とモ510形は揖斐線が廃止になると廃車になりましたが、モ770形とモ780形は新しかったので他の鉄道会社にすべてもらわれていきました。 (3枚目の写真です(=゚ω゚)ノ) モ770形は4編成8両全てが福井鉄道に譲渡されて現在も活躍中で、モ780形は7両全てが豊橋鉄道に譲渡されて、豊橋の路面電車の主力として現在も活躍中でございます。 名鉄揖斐線は忠節ー美濃北方間が1時間に4本、黒野までが1時間に2本、本揖斐までは1時間に1本確保していて不便のダイヤではない感じでしたし、新車も投入して頑張っていたのですが廃止になってしまった路線です。 残念でしょうがないですね( ;∀;) では次回のブログからは、同じく廃止になった名鉄美濃町線について話をする予定です(=゚ω゚)ノ
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2020年04月28日 21:22 コメント 7 件 名鉄線の廃線の思い出……揖斐線②
名鉄揖斐線の忠節駅は名古屋本線や各務ヶ原線の名鉄岐阜駅とは路面電車で結ばれていました。 名古屋から揖斐線に乗ろうと思うと、名鉄岐阜まで行って一旦改札をでて駅前の路面電車のりばに行き、そこから忠節行きの路面電車に乗ります。 そして忠節で揖斐線の電車に乗り換えて本揖斐方面に向かうという段取りでした。 こうなると乗り換えの不便さがあるので、それを改称すべく路面電車と揖斐線の線路が繋がっていたのを利用して1967年(昭和42)に直通運転が開始されました。この直通運転に使われた車両というのが1926年(大正15)生まれのモ510形という2枚目の写真の電車です(=゚ω゚)ノ 当時の車齢が40年余りだったとはいえ、直通電車に選ばれたのはステップがあって路面でも郊外でも対応することができたためと思われます。直通電車は急行として運転されて、普通電車は忠節発で運転されていました。ちなみに僕はこの電車には一度だけ乗ったことがあります♪ 名鉄岐阜駅前から本揖斐まで急行電車として直通運転されていましたが、1984年(昭和59)にダイヤの見直しが行われて黒野止まりとなり黒野ー本揖斐間は一部の電車を除いてこの区間の折り返し運転となりました。 そして1987年(昭和62)にはモ770形という揖斐線発の新車が登場して、この電車で直通急行が運転されるようになりました。1997年(平成9)にはモ780形という新車が登場するとすべての電車が路面電車から揖斐線への直通電車となりました。(3枚目のコラージュ写真) 旧型のモ750形は黒野ー本揖斐間のみの運転です。その黒野ー本揖斐間は谷汲線と同じく2001年(平成13)に廃止となりました。 残った区間である忠節ー黒野間もすべてが新型車両となり、直通運転をして頑張っていましたが、その区間も岐阜市内の路面電車や岐阜の関市まで延びていた美濃町線とともに2005年(平成17)に廃止となってしまいました( ;∀;) では次回のブログも揖斐線の話をします……
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