パソコン市民講座 プレミア倶楽部
パソコン市民講座 プレミア倶楽部  会員専用「プレミアブログ」
  •  「プレミア倶楽部」会員の一般公開ブログです。
  • 会員の方はログインしてください。
    • 8月の黄色先生の予定表ができました♪
    • 7月の黄色先生の走行予想日でございます♪
    • さ~て、6月の黄色先生は~(=゚ω゚)ノ
    • 黄色先生の入れ替えイベント(=゚ω゚)ノ
    • お待たせ~、5月の黄色先生の予定です♪
    • 「masakishi」さん より
    • 「あけちゃん」さん より
    • 「みささぎ小町」さん より
    • 「violet」さん より
    • 「イロン」さん より

「鉄道の旅人」さんのブログ一覧

929 件
  •  2020年09月25日 22:00  コメント 5 件 野上電鉄②…高野山への延伸計画もあった。

    さて、今回の3枚のコラージュ写真は野上電鉄終着駅の登山口駅でございます (=゚ω゚)ノ 登山口駅は1928(昭和3)年に紀伊野上駅から路線を延長して生石口駅(おいしぐち)として開業、1958(昭和33)年に登山口駅に改称されています。 ここは野上電鉄の路線バス登山口営業所も兼ねておりました。 1枚目の写真に登山口駅舎とその駅舎内の写真を添付しました。 窓口や改札口の古い感じが何というか懐かしさを感じる気がしますね、最近では改札口にある駅員さんが立つ枠の部分を取っ払って改札口がスッキリしている駅がほとんどになりましたので、この風景を滅多に見ることがなくなってしまいました。 2枚目にこの日に乗車した電車を撮影したものです。野上電鉄の車両はほとんどが昔に阪急電鉄や阪神電車を走っていた電車なんですが、僕が乗ってきたのは富山地鉄射水線で使われた車両でした。 なお、野上電鉄は高野山の付近まで延伸する計画があったようです。実際に登山口駅から東へ4.7㎞先の神野市場という所までは1930(昭和5)年までに着工されました。 しかし株主の中で反対の声もあって対立するようになり、工事は中止になったそうです。完成した橋脚もありましたが、それらは放置されて残っているらしいですね。 野上電鉄の廃止後の登山口駅跡地は野上電鉄のバス事業を引き継ぎ野上電鉄線の代行バスを運行する大十バスの本社と車庫が立っております。 車庫の裏側に回ってみると、わずかにホームの形跡を見ることができるのだそうです。 実際に神野市場まで延伸が完成し、その勢いで高野山付近まで延伸が叶うようなことがあったら今とはまた状況が変わってきたのかしらんと考えてしまう今日この頃です。 では、次回も野上電鉄の話になります(=゚ω゚)ノ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月22日 23:58  コメント 5 件 野上電鉄①…沿線の特産品を運ぶための鉄道

    前回のブログで有田鉄道という和歌山県にあって廃止になった路線の話をしました。 今回も和歌山県にあって廃止になってしまった中小私鉄の話でして、名前を「野上電気鉄道」といいます(=゚ω゚)ノ 野上電鉄はJR海南駅の近くにある日方駅から山の方へ入って海草郡野上町(現在の紀美野町)にある登山口駅まで結ぶ営業キロ11.4㎞の路線でした。 野上町は棕櫚(しゅろ)というヤシ科の植物が栽培されて、それを原料としてたわしやロープなどの製品が製造されて特産品となっていました。その特産品を港のある日方町(現在の海南市)に運ぶために設立されました。 そして紀勢本線がこの地まで延びてくる前の1916(大正5)年2月4日に日方ー紀伊野上間が開業し、それから1928(昭和3)年3月29日には紀伊野上ー生石口(1958(昭和33)年に登山口に改称)開業しました。 この野上電鉄もモータリゼーションの影響で乗客減少や特産品がトラック輸送に切り替わり経営難となりました。それで昭和40年代には廃止の方針を出したのですが、当時のオイルショックによって鉄道が見直されるようになったことにより廃止が撤回されて沿線自治体の補助金を受けて存続したという経緯があります。 その後も経営は思わしくなく、1992(平成4)年に国の地方鉄道への補助金見直しによって支援打ち切り対象となり再度廃線の方針を示すようになりました。 結局1994(平成6)年3月限りで廃止となりました( ;∀;) ただ廃止直前は相当ひどい状態だったらしく、鉄道が廃止になっても会社としては残ることがほとんどですが、この野上電鉄はバス事業も大十バスに譲渡して会社自体が消滅してしまいました(/_;) 僕が訪問したのは1993(平成5)年9月4日と9月5日の2日間です。 今回は起点の日方駅の写真を中心にコラージュしてみました(=゚ω゚)ノ 日方駅はJRの海南駅と離れていて、海南駅から日方駅に行こうとすると遠回りする必要があったために1949(昭和24)年に日方駅から約100m先に乗り換え専用の駅である連絡口駅が開設されました。連絡口駅は日方駅の構内となるためこの区間だけの乗車はできなくなっております。 次回のブログも野上電鉄の話をさせていただきます(=゚ω゚)ノ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月18日 23:46  コメント 9 件 みかんと木材を運搬した鉄道(=゚ω゚)ノ

    前回のブログで、和歌山県御坊にある紀州鉄道の話をしました。今回も和歌山県の鉄道の話です。 ただこの路線は廃線となっております(>_<) 御坊市より少し北に向かったところある有田郡有田川町にある藤並という駅からかつて内陸に向かって金屋口という駅まで営業キロ5.8㎞の有田鉄道というローカル私鉄が走っておりました(=゚ω゚)ノ 有田鉄道(ありだてつどう)は沿線で取れたみかん等の農産物を港のある湯浅まで運ぶために設立されました。1915年(大正4)に海岸ー下津野間が、1916年(大正5)に下津野―金屋口間が開業して全通しました。現在の紀勢本線がこの地まで延びてくる前のことでした。 その後1926年(大正15)に紀勢本線が藤並まで開通し有田鉄道も駅を作って接続を図り、1927年(昭和2)には湯浅まで延伸されました。藤並ー湯浅間が並行路線となると戦時下の1944年(昭和19)に休止となってレールが撤去されました。そんないきさつがあったためなのか、1950年(昭和25)から有田鉄道線が湯浅まで乗り入れるようになって1959年(昭和34)には正式に海岸ー藤並間が廃止になりました。 それから次第にみかん等の農産物はトラック輸送に切り替わっていき、1984年(昭和59)で貨物営業が廃止されました。 そして旅客列車の本数も段々と減少し、休日は運休で代替バスを運行という感じでした。2001年(平成13)11月からはなんと一日2往復という状況になりました。(ちなみに並走するバス区間は17往復でございます(;^ω^)) 結局2002年年末で有田鉄道は廃止となってしまいました( ;∀;) 廃線後は一部が自転車専用道になったようで途中駅は休憩ポイントとして一部が残っているようです。 そして終着の金屋口駅は周辺が整備されて、2010年(平成22)3月20日に有田川鉄道公園としてオープンしました(=゚ω゚)ノ かつて有田鉄道を走っていた車両が動態保存されていて体験乗車をすることができる日があり、公園内の鉄道交流館では有田川町の風景を再現した大ジオラマがあって鉄道模型も走っています。 この有田川町の地に、かつてみかん等の輸送に貢献した鉄道があったんだよと伝えていく施設ができて何よりだなと感じました、訪問の機会ができたらいいなぁと思いますね(●´ω`●)

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月15日 23:59  コメント 5 件 親会社は不動産屋の鉄道会社でアリマス。

    和歌山県に紀州鉄道という短いローカル線があるのを御存じでしょうか? 和歌山市から紀勢本線普通電車で南に約一時間少々下ったところに御坊市という所があります。そのJR御坊駅から分岐して西御坊駅までの営業キロ2.7㎞のミニローカル線でございます。 2002年(平成14)に千葉県にある営業キロが2.2㎞の芝山鉄道が開業するまでは、ケーブルカーをのぞき日本一営業キロの短い鉄道会社でした。 紀州鉄道は1928年(昭和3)に設立された御坊臨港鉄道が前身で、当時建設中だった紀勢本線が御坊の市街地から大きく外れたので、市街地まで鉄道を引くため町の有志が資金を出し合って設立したものです。 1931年(昭和6)に御坊駅ー御坊町(現在の紀伊御坊)、1932年(昭和7)に松原口(現在の西御坊)まで開業し、1934年(昭和9)に日高川まで開業し全通しました。 当初から赤字経営だったようですね、1960年代には廃止の噂が流れてきましたけど1973年(昭和48)に東京の磐梯電鉄不動産という所に御坊臨港鉄道は買収されて紀州鉄道となりました。 そして1989年(平成元)に西御坊ー日高川間が廃止されて現在にいたります(=゚ω゚)ノ 実は現在でも紀州鉄道は赤字経営ですが、廃線の噂は流れてきません。紀州鉄道は観光・リゾートホテル業を中心とした不動産部門で稼いでおります。 不動産会社が鉄道会社を買収したのは「鉄道」というネームバリューを手に入れたかったとのこと。「近鉄不動産」とか「東急不動産」等の多くの鉄道会社が不動産事業で成功しているのを見て、鉄道会社の不動産会社は信用されると感じて買収したらしいですね(゚д゚)! 地元からも愛されている路線ですし、赤字は数千万単位で済んでいるらしいですが看板代、広告代と思えばよいと考えているらしいです。廃線にする方が撤去費用等で損失が大きいと計算しているみたいですね。 僕が訪問したのは1993年(平成5)9月4日でした。キハ600という年季の入った車両にちっさな西御坊の駅舎が印象的でした。その後北条鉄道からキテツ1形がやってきて、現在では信楽高原鐡道からやってきたKR301とKR205という車両が運行されています。 営業キロ2.7㎞、所要時間約8分のミニ旅行ですが、また訪れてみたいものです♪

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月11日 23:59  コメント 10 件 写真撮る時、意識するようになりました♪

    さてわたくし、最近のパソコン市民講座ではパソコン資格の講座ではなく趣味的講座を受けております。 その手始めに受講したのが「デジタル写真マスター講座」でした(^^)/ その11項目からなる「デジタル写真マスター講座」先月で終わり、ただ今「脳トレおとなプログラミング講座」というのに手を出し始めました( ..)φ 以前フィルム写真スキャンしてデジタル化する項目があって興味深かったという話をしたことがありますが、今回は撮影のコツを教えてくれるという講座もあったという話をしてみることにします(=゚ω゚)ノ 「ワンランク上の撮影術」という項目でカメラの特徴とか、撮影する時の構図等を教えていただくという内容で、おそらく「フォト散歩」で似たようなことをやっているのではと推測します、撮影時にとても参考になりますね。 そう言えば、最初は電車そのものを撮るとか駅舎を撮ることしか考えてなかったけど最近はこの角度が良いとか、電車を撮影する時に構図を想像して撮影してみるということを意識するようになったので、やはり意識して撮影することは大事だと思いながら受講しておりました( ..)φ 例えば僕の場合ですが、2枚目に最近訪問した名鉄広見線顔戸という駅で撮影したものをコラージュしたので見て下さい。 この時は先ず「顔戸」という駅だと分かることと、電車全体を入れてみたいと考えて色々とアングルを探したわけです。 その結果踏切から撮影するのが良さそうと判断して挑戦したのが上に並んだ三枚の写真です、流石に駅の名前が判別できて電車全体を入れることは無理でしたね。 そして反対側からくる電車で「顔戸」という駅の名前を入れて撮影できるなと思って撮影したのが下の二枚の写真でした。 再度訪問して更に良い角度を探してみたいものです(=゚ω゚)ノ 電車を撮影するのに憧れる撮影方法があります、それは「流し撮り」という方法です。 これは被写体を追いかけるようにカメラを動かして撮影する手法です、この場合はカメラで電車を追っていくわけですね。 3枚目に僕が挑戦した流し撮りの写真を添付しました。左側の写真は背景がブレてスピード感が何とか出ているのではないでしょうか。 本格的な一眼レフを抱えて、鉄道写真を撮ることに憧れている今日この頃ですのでまだまだ精進したいですね(#^.^#)

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月08日 23:59  コメント 13 件 八百津vs中津川 どっちが発祥の地⁉

    前々回、前回のブログで廃線となった名鉄八百津線の話をしたわけですが、その際確認するために八百津町関係のことを色々と検索して調べるのですが気になることが八百津町観光協会のホームページに書いてありました。 書いてあったこととは… 「栗きんとん発祥の地は八百津……(=゚ω゚)ノ」 というもの。 栗きんとんと言えば、中津川のイメージがあります。 中津川駅前には「栗きんとん発祥の地」という石碑がたっているほどで、たくさんの和菓子店があります。僕は八百津で栗きんとんのイメージは全くと言っていいほどありませんでした。 今回は栗きんとんの話をしてみることにしましょう( ..)φ そもそも栗きんとんとは、2種類の形状があります… 和菓子の栗きんとんは蒸した栗に砂糖を加えて炊き、茶巾で絞って形成したものを指します。漢字で「栗金飩」と書くそうです。 おせち料理に入る栗きんとんは、くちなしの実を使って色鮮やかに仕上げるのが特徴とのこと。漢字で「栗金団」と書きます。 中津川市は県内有数の栗の産地で、江戸時代から中山道の宿場町として栄えたところです。その頃から栗菓子が色々と考えられて明治に入って「栗金飩」の原型が出来てきたようです。 一方八百津町は、創業が1872年(明治5)の「緑屋老舗」が大正時代になって三代目店主が栗を使った和菓子を考案、それが「栗金飩」の始まりという説があるそうです。 中津川市は沢山のお店がある中で「川上屋」と「すや」というお店が江戸時代から創業している有名どころですね、「川上屋」はよく耳にするお店でゴザイマス(^^)/ あと駅近くの「にぎわい特産館」にて市内14店舗の栗きんとんを7個と中津川産のお茶を詰め合わせた「栗きんとんめぐり」という季節限定商品があるそうですね、「風流」「ささゆり」の二種類があって、一箱税込2,067円とのことです。 あと八百津町と中津川市のゆるキャラを添付してみました(中津川市は複数あるようです)。ちなみにこの二つのゆるきゃらの頭の形は「栗きんとん」なんだそうです( *´艸`) 今回八百津町に栗きんとん発祥説があるということを初めて知ってびっくりしましたが真相はまだ謎のように思います。 これから「栗金飩」の季節真っ盛りです、八百津の栗金飩を買いにまた出かけてみようかしらん(^ω^)

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月04日 22:17  コメント 10 件 名鉄八百津線②…現在の旧八百津駅周辺は?

    前回のブログで、以前明智ー八百津間を走っていた名鉄八百津線の紹介をしました。 今回は先日現在の旧八百津駅付近に行ってきたので、その話をすることにします(=゚ω゚)ノ さて鉄道の廃線後は八百津町が東濃鉄道(”鉄道”と付きますがバス会社です)にバス運行を委託して「YAOバス」という名称で運行しています。 八百津町の中心地は名鉄八百津駅から少々歩かないといけないのですが、YAOバスは中心地まで乗り入れております。終点が八百津ファミリーセンターという、中央公民館、保健センター、産業会館、商工会からなる複合施設のあるところです。 鉄道時代は1時間に2本、明智ー八百津間は大人290円でしたが、YAOバスは1時間に1本で明智駅前ー塩口間(旧八百津駅の最寄りのバス停です)は大人350円と運賃は若干高くなっています。 ちなみに明智駅前から八百津ファミリーセンターまで乗車すると大人400円です(=゚ω゚)ノ では実際に現在の旧八百津駅付近はどうなっているのかというと、2枚目と3枚目の写真がその様子でございます。 ほとんど駅があったという形跡は無くなっていたのがビックリですΣ(・ω・ノ)ノ! 分譲地となって一戸建てが並んでいました。 2枚目の写真、廃止約一年前である2000/12/12の訪問と2020/8/27訪問の写真を並べてみました。上段は左端の緑のひさしがある家は廃止された当時からあることを考えると多分◯で囲んだあたりに駅舎があったと思われます。ロータリーのあたりには新しい家が建っております。 中段は◯で囲んだところに注目です(=゚ω゚)ノ この家と電柱は20年程経過してもあるのでほぼこの角度での撮影に間違いないでしょう。 下段も若干の位置の違いはありますがこんな感じになることでしょう。 住宅街となった旧八百津駅の明智寄りに数メートルだけ線路が残り「八百津駅跡」という記念碑があって、わずかにここに駅があったという痕跡が残されておりました。 ここはベンチでも置いて憩いの場にし、大きめの説明看板を立てて後世まで伝えてほしいですね(・_・) 名鉄八百津線が廃止されて来年で20周年になりますな。 復活も夢見たいものですが、せめて鉄路がここまで延びていたことを後世の人達に伝えていってほしいものです( ..)φ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年09月01日 23:38  コメント 6 件 名鉄八百津線①…ダム建設に貢献した路線

    さて、前回のブログで廃線の危機にある名鉄広見線新可児~御嵩間が開業100周年を迎えたと紹介しました。 その途中にある明智駅から、以前は八百津までに至る7.3㎞の名鉄八百津線という路線が延びておりました(=゚ω゚)ノ 名鉄八百津線は東美鉄道によって1930年(昭和5)4月30日に伏見口(現在の明智)~兼山間が、同年10月1日に兼山~八百津間が開通しました。 そして1943年(昭和18)3月に名古屋鉄道と合併して新広見~御嵩間と共に東美線となりました。その後1948年(昭和23)5月に新広見~御嵩間を広見線に統合して、伏見口~八百津間は八百津線と改称されたのであります( ..)φ 八百津駅から木曽川を上流に向かって行った蘇水峡付近に丸山ダム建設が計画され、資材運搬のために八百津から線路が延長されました。1943年(昭和18)に着工されて戦局のための工事中止を得て1952年(昭和27)軌道工事が完成して運用され、1954年(昭和29)に丸山ダムが完成して役目を終えた専用線は廃止となりました。 八百津町は風光明媚なところが沢山あり、観光地として注目されていたこともあってか名古屋方面からの直通特急が運転されていました。 パノラマカーも使われて、「蘇水湖号」という愛称の付いた電車が走るようになりました。 ですが昭和40年代後半になると道路整備が進んでマイカーが増加して利用客も減少していったとのこと… そして1984年(昭和59)合理化のために当時富士重工が開発していたLEカー(ライトエコノミーカー)というレールバスを八百津線に導入して電車運転を取りやめました。 それでも赤字は改善されること無く、2001年(平成13)9月で廃止となり71年の歴史に終止符が打たれてしまいました( ;∀;) 実は先日100周年を迎えた名鉄広見線新可児~御嵩間を訪問した際に、八百津駅周辺が現在どんな風になっているのかをちょっと見て参りましたので次回のブログでその話をさせていただきます(=゚ω゚)ノ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年08月28日 23:59  コメント 8 件 1920年8月21日生まれの100歳! 

    本日のブログタイトル、何のことかと申しますと…… 愛知県の犬山から岐阜県の御嵩まで走る名鉄広見線、その中で廃線の危機を迎えて油断ができない新可児から御嵩までの区間が先日8/21に開業100周年を迎えたワケなんです♪ 8/27のことですが、久々に御嵩方面に出かけて鉄分補給をしてまいりました\(^o^)/ 名鉄広見線の新可児ー御嵩間は1920年(大正9)に新多治見から広見(現在の可児)まで来ていた東濃鉄道が広見から御嵩(現在の御嵩口)まで開業させたのが始まりです。 のちに新多治見ー広見間が国有化されて残りの広見ー御嵩間は新たに設立された東美鉄道に引き継がれました。ちなみに新多治見ー広見間は現在の太多線の一部でゴザイマス(=゚ω゚)ノ そして名古屋鉄道は1925年(大正14)に犬山から現在の日本ライン今渡まで延ばして「今渡線」が開通しました。 その後1929年(昭和4)に名古屋鉄道は広見まで延長して「広見線」となりました。それから1943年(昭和18)東美鉄道と名古屋鉄道が合併して東美鉄道の区間は「東美線」となり、1948年(昭和23)には新広見ー御嵩間が広見線に編入されたとのこと。 1952年(昭和27)には700m延伸されて「新」御嵩駅が開業して、今までの御嵩駅は御嵩口と改称されました。 名古屋方面からの直通電車が運転されていたのですが、乗客減少のためか段々と減便されて2008年(平成20)6月29日には新可児ー御嵩間で折り返しのワンマン運転が開始されました。 この時に有人駅だった明智駅、御嵩駅が無人化されました(._.) そんな経過を経て、2020年(令和2)8月21日に開業100周年を迎えたわけなんですね。 御嵩駅から徒歩5分ほどにある中山道みたけ館では開業100周年を記念してその歩みや、ゆかりのあるものを展示していました。きっぷ切りの体験なんかもできるというコーナーもあって面白いですね。パノラマカーの先頭に付いていた逆三角形の行先表示版が懐かしかったです(●´ω`●) 廃線の危機が続いている中、開業100周年を迎えることができて何よりであります。 未来に向けての100年までも広見線の新可児ー御嵩間が走り続けてほしいものです(=゚ω゚)ノ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
  •  2020年08月25日 23:58  コメント 9 件 かつて旅客輸送をしていた貨物鉄道

    岩手県の大船渡市に盛駅を起点として赤崎駅までの赤崎線と岩手石橋駅までの日頃市線を有する岩手開発鉄道という貨物専業の鉄道があります(=゚ω゚)ノ この岩手開発鉄道というのはかつて盛ー岩手石橋間3往復、盛ー日頃市間2往復の計5往復だけ旅客列車の設定がされておりました。 時期は忘れたのですが、一度だけ旅客営業時代に盛~日頃市間乗車した記憶があります。 確か本数の関係で時間が無くて岩手石橋までは行くことはかないませんでした(/_;) では岩手開発鉄道を紹介します(=゚ω゚)ノ この鉄道は岩手県大船渡港から内陸部を鉄道で結んで産業振興をはかり、沿線地域の開発を目的に沿線市町村並びに関係企業による第三セクター地方鉄道会社として1939年(昭和14)に設立されました。 かなり内陸にある釜石線の平倉駅まで結ぶ計画でしたが、太平洋戦争で工事が中断しました。戦後工事が再開し、1950年(昭和25)に盛から6㎞内陸に入った日頃市まで開業しました。 1957年(昭和32)に盛から海側のセメント工場のある赤崎まで開業しました。 そして石灰石が産出される大船渡鉱山近くにある岩手石橋まで1960年(昭和35)に延伸されてセメント工場向けの石灰石輸送が始まってから経営が上向きになってきたらしいです。 旅客輸送は盛から岩手石橋の日頃市線で開業当初から行われておりましたがあまり重視はしていなかったとのこと。 石灰石の輸送量は以前よりは半減しているものの私鉄では上位クラスの輸送量らしい、でも旅客輸送の赤字を埋めるところまではいかなかったからなのか1992年(平成4)に日頃市線旅客営業が廃止となってしまいました( ;∀;) 現在も貨物輸送が十数往復あるそうです、途中の猪川駅はなくなりましたが、長安寺駅と日頃市駅は列車交換のための信号所として駅舎もホームも残っているみたいです。終点の岩手石橋の駅舎は事務所として使われているようですね。 ちなみに計画をしていた釜石線の平倉駅まではあと20㎞ほどあります( ..)φ 旅客列車は無くなりましたが、貨物輸送でがんばる岩手開発鉄道でゴザイマス。 貨物列車を見に行くのも悪くないかも(=゚ω゚)ノ

     メッツ大曽根教室
     鉄道の旅人 さん
     公開中
« 前へ 次へ »
利用規約 プライバシーポリシー 運営会社情報 © 2010 - 2025 パソコン市民講座