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「鉄道の旅人」さんのブログ一覧

929 件
  •  2020年05月08日 21:23  コメント 6 件 名鉄線の廃線の思い出……美濃町線②

    ではでは、今回は美濃町線で使われていた車両を紹介してみましょう(=゚ω゚)ノ 写真1枚目…赤いのがモ880形 1980年(昭和55)に5編成10両が導入された新岐阜乗り入れ用の電車です。美濃町線は電圧が600Vで短絡線で入る各務ヶ原線は電圧が1500Vと異なるので、両方に対応できる装備を持っております。 白いのはモ800形 2000年(平成12)に3編成が新岐阜乗り入れ用として導入されました。600V区間でも1500V区間でも対応ができ、部分低床車というかなり意欲的な車両だと思いますね。 写真2枚目…右側の面長なマスクなのがモ600形 1970年(昭和45)に競輪場前ー田神間に短絡線が設けられて、新岐阜駅までの直通運転をするための車両として新造されたもの。 1971年(昭和46)に鉄道友の会から「ローレル賞」というものを受賞した車両です。 左側はモ590形です。 1957年(昭和32)に5編成導入されて、岐阜市内の路面電車や美濃町線を走ったもの。こちらの電車は新岐阜駅に乗り入れる対応はしていないので新関ー美濃間があった頃はそこで使われたり、徹明町方面への運用に使われました。 写真3枚目…モ870形と言います。 (この電車だけ撮影できなかったのでネットから拝借(=゚ω゚)ノ) 1976年(昭和51)に札幌市交通局から3編成購入したもの。導入当初は新岐阜に乗り入れる機能は無かったので、徹明町発着で使用していました。この車両も2000年(平成12)に新岐阜に乗り入れができるように改造されました。 それでは次回のブログも美濃町線の話でゴザイマス!(^^)!

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  •  2020年05月05日 21:01  コメント 7 件 名鉄線の廃線の思い出……美濃町線①

    名鉄の岐阜地区600V線区と言われた地域で、美濃町線という岐阜市の中心地から刃物の町関市や、和紙で有名な美濃市を結ぶ約24kmの路面電車の路線がかつてありました(=゚ω゚)ノ 美濃町線は美濃電気軌道の手により1911年(明治44)2月に神田町ー上有知(こうずち)間が開通したのが始まりです。神田町とは現在の岐阜市の柳ケ瀬になります。 そして1911年4月に上有知町が美濃町への変更に伴って、駅名が「美濃町」に改称されました。1930年(昭和5)に美濃電気軌道は名古屋鉄道と合併しました。 1950年(昭和25)には岐阜柳ケ瀬だった起点を徹明町に変更しました。その後美濃町が1954年(昭和29)に市制施行に伴って終点を美濃に改称しました。 1970年(昭和45)競輪場前駅から各務ヶ原線の田神駅まで新線を設けて新岐阜駅までの直通運転が開始されました。 しかしながら乗客減少により、1999年(平成11)に長良川鉄道との並行部分である新関ー美濃間が廃止されました。その際に名鉄の新関駅と長良川鉄道の関駅とは少し離れていたので、そこまで乗り入れる新線を作って名鉄の関駅が設置されました。 その後も利用客は減少し、結局は2005年(平成17)に残った路線も全て廃止となってしまいました( ;∀;) 本日の添付写真 1枚目……Wordで美濃町線の路線図を作ってみました(=゚ω゚)ノ 2枚目……新関駅舎と関駅です。関駅は待合室があって、平面に線が引かれたものです。暗くてわかりづらいですが、この奥の方に長良川鉄道の関駅があります。 特徴のある電車が止まってますが、この電車の紹介は次回のブログでします。 新関駅舎の現在は解体されて住宅街になっているようで、駅があった形跡が無いようです。 3枚目……1999年まで終着駅だった美濃駅です。実は美濃駅は3回移転しており、この駅舎は1923年(大正12)にできた3代目となります。 現在この駅とホームは保存されていて、かつてのホームには美濃町線を走っていた車両が保存されています。 次回は車両について紹介しましょう(=゚ω゚)ノ

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  •  2020年05月01日 21:16  コメント 5 件 名鉄線の廃線の思い出……揖斐線③

    さて谷汲線は代替バスも廃止になってしまいましたが、揖斐線の方はほぼ同じルートをバスでたどることができるようです。 岐阜バスが名鉄岐阜駅から黒野駅があった大野町の役場の前にある大野バスセンターまでと、揖斐川町のコミュニティバスが大野バスセンターから本揖斐を経由して養老鉄道揖斐駅までの路線があるようです。 本数としては電車時代よりも減っている感じですね(=_=) 名鉄揖斐線には、ちょっと面白い名前の駅があったので2枚目にコラージュ写真にしてみました。 「又丸(またまる)」「尻毛(しっけ)」と読みます(=゚ω゚)ノ 「又丸」の由来は不明ですが、「尻毛」は「湿気」からきているらしいです。伊自良川と鳥羽川の合流地点の湿地帯だったとのこと。 モ750形とモ510形は揖斐線が廃止になると廃車になりましたが、モ770形とモ780形は新しかったので他の鉄道会社にすべてもらわれていきました。 (3枚目の写真です(=゚ω゚)ノ) モ770形は4編成8両全てが福井鉄道に譲渡されて現在も活躍中で、モ780形は7両全てが豊橋鉄道に譲渡されて、豊橋の路面電車の主力として現在も活躍中でございます。 名鉄揖斐線は忠節ー美濃北方間が1時間に4本、黒野までが1時間に2本、本揖斐までは1時間に1本確保していて不便のダイヤではない感じでしたし、新車も投入して頑張っていたのですが廃止になってしまった路線です。 残念でしょうがないですね( ;∀;) では次回のブログからは、同じく廃止になった名鉄美濃町線について話をする予定です(=゚ω゚)ノ

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  •  2020年04月28日 21:22  コメント 7 件 名鉄線の廃線の思い出……揖斐線②

    名鉄揖斐線の忠節駅は名古屋本線や各務ヶ原線の名鉄岐阜駅とは路面電車で結ばれていました。 名古屋から揖斐線に乗ろうと思うと、名鉄岐阜まで行って一旦改札をでて駅前の路面電車のりばに行き、そこから忠節行きの路面電車に乗ります。 そして忠節で揖斐線の電車に乗り換えて本揖斐方面に向かうという段取りでした。 こうなると乗り換えの不便さがあるので、それを改称すべく路面電車と揖斐線の線路が繋がっていたのを利用して1967年(昭和42)に直通運転が開始されました。この直通運転に使われた車両というのが1926年(大正15)生まれのモ510形という2枚目の写真の電車です(=゚ω゚)ノ 当時の車齢が40年余りだったとはいえ、直通電車に選ばれたのはステップがあって路面でも郊外でも対応することができたためと思われます。直通電車は急行として運転されて、普通電車は忠節発で運転されていました。ちなみに僕はこの電車には一度だけ乗ったことがあります♪ 名鉄岐阜駅前から本揖斐まで急行電車として直通運転されていましたが、1984年(昭和59)にダイヤの見直しが行われて黒野止まりとなり黒野ー本揖斐間は一部の電車を除いてこの区間の折り返し運転となりました。 そして1987年(昭和62)にはモ770形という揖斐線発の新車が登場して、この電車で直通急行が運転されるようになりました。1997年(平成9)にはモ780形という新車が登場するとすべての電車が路面電車から揖斐線への直通電車となりました。(3枚目のコラージュ写真) 旧型のモ750形は黒野ー本揖斐間のみの運転です。その黒野ー本揖斐間は谷汲線と同じく2001年(平成13)に廃止となりました。 残った区間である忠節ー黒野間もすべてが新型車両となり、直通運転をして頑張っていましたが、その区間も岐阜市内の路面電車や岐阜の関市まで延びていた美濃町線とともに2005年(平成17)に廃止となってしまいました( ;∀;) では次回のブログも揖斐線の話をします……

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  •  2020年04月24日 22:51  コメント 2 件 名鉄線の廃線の思い出……揖斐線①

    前回までのブログでは谷汲線を紹介しました。 では今回からは揖斐線の話ですね、まずは簡単に歴史を振り返ります(=゚ω゚)ノ 揖斐線は1914年(大正3)に岐北軽便鉄道の手により忠節ー北方間が開通したのがはじまりです。その後1921年(大正10)に美濃電気軌道となりました。 それから1926年(大正15)に美濃北方ー黒野間が開通しました。これは当時の谷汲鉄道が黒野ー谷汲間を開通させた日と同じです。そして1928年(昭和3)に黒野ー本揖斐間が開業して全通しました。 名古屋鉄道揖斐線となったのは1930年(昭和5)でした。 そして2001年(平成13)に黒野ー本揖斐間が廃止されて、その後2005年(平成17)に忠節ー黒野間も廃止となってしまいました( ;∀;) 今日の写真ですが、 1枚目……起点の忠節駅と揖斐線の路線図のコラージュ写真です。現在のこの場所には駅があった形跡は全く無くて、別会社のスーパーが立っているようです。 2枚目……終点の本揖斐駅舎とホームです。1928年の開業時のものですが、なかなかモダンな駅舎なのではないでしょうか。 この駅舎も現在は取り壊されていて、跡地はバス停と駐車場になっているようです。 3枚目……名鉄のモ510形という形式で1926年(大正15)製の電車でございます。現在の名鉄岐阜駅と揖斐線の忠節駅の間は路面電車で結ばれていて乗り換えが必要でした。 でも線路は繋がっていたので、1967年(昭和42)にこの電車を使って名鉄岐阜の路面電車のりばから本揖斐までの直通運転が開始されたわけです。 その後は新型車も出てきたので予備車扱いとなり、2005年(平成17)に揖斐線が廃止になったのに伴って廃車となりました。 実に80年近く稼働していた電車なんです(=゚ω゚)ノ では次回も揖斐線の話になります!(^^)!

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  •  2020年04月21日 21:45  コメント 7 件 名鉄線の廃線の思い出……谷汲線③

    では今回は谷汲線を走っていた電車の走行写真を添付させていただきました(=゚ω゚)ノ 電車の形式はモ750形と言いまして、1928年(昭和3)製でございます。2枚目の写真に車内の写真を添付しました。 この電車、実は我が町を走る名鉄瀬戸線が繁華街栄町に乗り入れる前に名古屋城のお堀を走っていて、お堀の電車と呼ばれていた頃に瀬戸線を走っていたものです。 この時の車体は緑色だったんですよ(^ω^) 栄町に乗り入れる前に電圧が600V→1500Vと昇圧された際に、こちらへと移ってきたのでありました。 そして2001年(平成13)の谷汲線廃線の後は廃車となりました。 この電車は谷汲昆虫館となった元谷汲駅と、名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅から歩いて約5分程のところにある瀬戸蔵ミュージアムに保存されています。 さて黒野ー谷汲間の廃止後は代替バスが走っていたのですが、更に乗客が減少したようで2005年(平成17)に廃止となったのでこの区間は公共交通機関で行くことができなくなりました。 公共交通機関で谷汲まで向かおうとする場合は大垣から樽見鉄道に乗って谷汲口駅で下車して、揖斐川町のコミュニティバスで10分程度かかる行き方と、大垣から養老鉄道に乗って終点の揖斐駅まで行ってから、揖斐川町のコミュニティバスで30分程度かかる行き方があります。 ただしどちらも本数は少ないので行く前には下調べをしておく必要がありますね(=゚ω゚)ノ 名鉄谷汲線は名鉄の路線の中でもっともローカルムードが漂う路線だったような気がします。 そんなローカルムードが漂う谷汲線は大好きな路線でしたので廃止になるという話を聞いた時は大変ショックでしたね。 もっともっと沢山出かけて沢山写真を撮っておけばよかったと思います(・_・) ではでは、次回は黒野駅で接続していた名鉄揖斐線の話になる予定でございます(=゚ω゚)ノ

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  •  2020年04月17日 21:48  コメント 8 件 名鉄線の廃線の思い出……谷汲線②

    さて、今回の写真は谷汲駅でございます(=゚ω゚)ノ 1枚目のコラージュ写真は廃止間近の谷汲駅とホームです。 1996年(平成8)に開業当初から使用していた駅舎を建て替えたものです。谷汲村昆虫館が併設されていました。 2枚目の写真ですが、これも谷汲駅のホームです。 谷汲線は名鉄の路線の中では積雪量が多いところでした。確かこの位置でフラッシュを使うのと使わないのを1枚ずつ撮影したら、フラッシュを使った方がこの様に撮影できたのです(ちょっと記憶は定かでないです(;^ω^)) なかなか良い感じなのではと思い、コラージュしないで添付してみました。 3枚目のコラージュ写真は1996年(平成8)に建て替える前の谷汲駅です。これが開業当初の駅舎とのこと。 谷汲駅は1926年(大正15)に谷汲鉄道が黒野ー谷汲間を開通させた時に開業しました。 そして1996年(平成8)に谷汲村昆虫館が併設された近代的な駅舎となりましたが、その5年後の2001年(平成13)に谷汲線の廃線とともに駅も廃止となりました( ;∀;) この駅舎は現在も谷汲昆虫館として残っています。そして旧ホームにはモ750形(写真の赤い電車)とモ510形という形式の電車が保存されています。 ここから谷汲山華厳寺までは歩いて10分少々といったところでしょうか。 当時は揖斐郡谷汲村でしたが、平成の大合併で現在は揖斐川町となっております。 では次回は谷汲線を走っていた電車の走行写真を添付して話をさせていただきます(=゚ω゚)ノ

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  •  2020年04月14日 23:26  コメント 13 件 名鉄線の廃線の思い出……谷汲線①

    さて愛知県ではコロナウィルスの感染拡大が目立ってきたという事で独自で緊急事態宣言が出されました。隣の岐阜県と三重県でも緊急事態宣言が出されて不要不急の外出や移動の自粛を求めました。 これにより愛知県下のパソコン市民講座の教室も臨時休講となってしまいましたね(;^ω^) 僕のブログは鉄道にまつわることや旅をテーマとして書いておりますが、ネタが無くなってしまいました( ;∀;) 宣言前は三密に気をつけて隣の県まででかけてネタを拾ってきたのですが、この状況下では出かけるわけにもいかないので(と、いうか怖い気もするので)、過去に紙の写真で撮影したものからネタを拾ってブログを書いてみようという次第です( ..)φ デジカメ写真講座でスキャンを習っておいてよかったというべきでしょうか(●^o^●) 愛知県と岐阜県にかけて総営業距離444.2kmに及ぶ路線網を持つ名古屋鉄道。実は以前岐阜地区に市内電車等の路線が走っておりました。 これらの路線の話をしていきたいと思います。先ずは名鉄谷汲線です(=゚ω゚)ノ 名鉄谷汲線は谷汲山華厳寺への巡礼客を運ぶのを目的として、谷汲鉄道により1926年(大正15)に黒野ー谷汲間が開通しました。 その後1944年(昭和19)に名古屋鉄道となりました。 しかし巡礼客は多かったのですが沿線は人口が少なくて山の中を走る超閑散路線でかなりの赤字があり、2001年(平成13)で廃止となってしまいました(T ^ T) 今回の写真は…… 1枚目…谷汲線の起点だった黒野駅とその構内。    揖斐方面への接続駅で構内は結構広かったです。 2枚目…現在の黒野駅だった所の様子(ネットから拝借)    整備されて黒野駅ミュージアムとなり、駅舎とホーム    の一部が残されていて、当時の資料もあるようです。 3枚目…黒野の次からの谷汲線の駅です、長閑ですね~♪ 次回は終点の谷汲駅の話になる予定です(=゚ω゚)ノ

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  •  2020年04月10日 22:12  コメント 16 件 お花見して鉄分補給(=゚ω゚)ノ

    先週ぐらいでしたか、プレミアブログに関西私鉄と桜のコラボ写真をあげた方がいらっしゃいました( ..)φ それを見かけた僕は名鉄瀬戸線の車窓から桜が見ることができるあるポイントを思い出しました。思いつくと気になってしまいましたので、数日前にそのポイントに出かけてみました(=゚ω゚)ノ 名古屋の栄町から尾張旭を通って尾張瀬戸までの20.6キロを結ぶ名鉄瀬戸線でございますが、名古屋の繁華街栄町を出発して次の東大手までが地下駅でそこから名古屋市東区にあります矢田までの約5kmほどが高架区間なのであります。 東大手を出た電車はそこから高架に上がり次の清水、尼ケ坂、森下、大曽根と高架駅となるその区間は春になりますと両サイドに桜の木が咲き誇り、電車に乗っていると上から桜の木を眺めることができるのです。 今度は下からも眺めて見たいものだとかねがね思っていました。 そこを今回は上からも眺めて下からも眺めて、その周辺を散策してみたのです!(^^)! 尾張旭駅から瀬戸線に乗り込んで、下車したのは尼ケ坂駅です。そこで撮影した写真をコラージュにしたのが1枚目でございます。電車を入れての上からと下から見たところです(^ω^) さてこれだけの桜並木と電車のコラボ写真を撮ってみたいと思い、入ることのできる高いマンションを探して撮影したのが2枚目の写真です。(ちなみにこのタイプの写真を数枚撮影しましたが敢えてコラージュ写真にはせず1枚にしてみました) 地元の雑誌等でこのアングルの写真をよく見かけていて、自分でも撮影してみたいと思っていたので念願がかなったわけですヽ(^o^)丿 清水ー尼ケ坂間の高架下は2019年3月に商業施設が1期分としてオープンし2期分が2020年3月にオープンしています。 「SAKUMACHI商店街」と名付けられて、おシャレなお店が並んでおります。 (3枚目のコラージュ写真) 桜のピークは過ぎていましたが、まだまだ見応えはありましたね♪ 今回は入りませんでしたが、「SAKUMACHI商店街」のおしゃれな店でくつろぎながらお花見するのも悪くないですね(^ω^)

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  •  2020年04月07日 21:54  コメント 4 件 京都の龍安寺の石庭のもとになったらしい…

    では商家竹屋を出た後、少し町中を歩いて竹屋の案内人の方が話していた京都の世界遺産である龍安寺の石庭のもととなったお庭のあるお寺に向かいました。 御嵩駅を起点とすると歩いて10分少々かかるところにそのお寺はありまして、名前は愚溪寺(ぐけいじ)といいます(=゚ω゚)ノ 大智山愚溪寺…… 入口にあった説明板によると、1432年頃に臨済宗妙心寺派の義天玄承が先師の足跡をたどって、鈴が洞の地に愚溪庵を開創したのが始まりとのこと。 その後1504年~1521年の永正年間に愚溪寺となり、東美濃における名刹として名を残しています。そして江戸時代の1830年~1844の間に現在地に移転されたらしい、駅から10分少々で行ける距離ではなかったということですね( ..)φ そこにある石庭が龍安寺の石庭のもととなったわけですね。 ちなみに京都の龍安寺は1450年(宝徳2)に細川勝元が建立して、義天玄承が初代の住職であります(1枚目のコラージュ写真) 2枚目のコラージュ写真は町中の銀行と郵便局で見つけた福寄せ雛でございます(=゚ω゚)ノ 銀行の商品について学んでいるようですね。 竹屋の案内人によると、来年のひな祭りは福寄せ雛を更に拡大させる計画があるとのこと。もっともっと色々なことをしでかすひな人形がいると思うので楽しみではありますね(●^o^●) 3枚目のコラージュ写真は御嵩町の玄関駅、名鉄広見線御嵩駅です(=゚ω゚)ノ 1952年(昭和27)に開業した駅で2008年(平成20)に無人化となり翌年に駅舎は御嵩町の観光案内所となり現在に至ります。 名鉄広見線犬山ー御嵩間のうち、新可児―御嵩間が廃線の危機となっていて地元では活性化協議会を結成して存続のために頑張ってオリマス!(^^)! 実は6,7年ぶりに御嵩に来たのですが、その頃から存廃問題に揺れておりました。油断は禁物なのですが廃止されること無く2020年も走っていることはなによりでございます(=゚ω゚)ノ 来年は更にパワフルになりそうな御嵩の福寄せ雛ですので、名鉄広見線で再度御嵩の町を訪れて見に行きたいものです、色々と楽しみですね~(^ω^)

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