「lionking」さんのブログ一覧
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2016年09月02日 11:01 コメント 5 件 ◎海を挟んで、こんなにも違う気候◎
皆さん~お早うございます!!「長月」に入り、月半ばを過ぎると涼しさを感じてくると思いますが、もう暫くの辛抱ですね~。「お待ちぃ~」美川憲一(談) 里帰りをしていたサンフランシスコは「夏は涼しく、冬は暖かい」シスコの象徴とも言える霧は朝晩に発生します。この霧により、カリフォルニア州のどの都市よりも季節ごとの気温差が少なく、何時訪れても、快適に過ごせます。 日本の夏と大きく違う点は、平均気温が15°前後、最高でも20°。(勿論夏は24~5度になる時もある)朝夕は霧が多く発生し、夜は冷え込むのでトレーナーか厚手のセーターが必要です。加州は乾燥しており、湿度はなく、日本の気持ち悪いベタベタ感がないのが一番助かります。 NHK番組で鶴瓶さんと澤穂希さんの家族に乾杯でシスコ編に取り上げられた様ですね。(スミマセン脱線です) アメリカでも一番人気のある町、気候にも恵まれている街に45年近くも住み、甘やかされていた点が名残惜しいですが、終の棲家は富士山が毎日望める湘南茅ケ崎が最高!! シスコは緯度的には福島県猪苗代湖当たりになり、気候は地中海性気候です。 「トム・ソーヤの冒険」を書いたマーク・トウェインが「人生の中で過ごした一番寒い冬は夏のサンフランシスコだった」「The coldest winter I ever spent was a summer in San Francisco」と言い残している。流石有名な作家だけあって、言い回し方お洒落ですね!! さしずめ私流言い方で言わせて貰えれば「一番寒い冬は、酔っ払い何処に置き忘れたか解らない、夏のボーナスだった」ライオンキングの冒険・・なんちゃって兄さん(Noオジサン) シスコは三方を海で囲まれた半島の突端で、縦横15キロ平方の町で人口約86万強です。 北のアラスカから還流が下り、南に2時間のモントレー半島では暖流と鬩ぎ合いをしており、新鮮な魚も捕れます。 太平洋を挟んだだけで、これだけの気温の違いがあるから驚きですね。 またまた、長々お付き合い頂き有難う御座いました。 良い一日をお過ごし下さい。チャオ 写真1:飛行機からシスコの街とオークランド・ベイ・ブリッジ 写真2:金門橋=太平洋から名物の霧が入る 写真3:マリン郡よりのゴールデン・ゲート・ブリッジ
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2016年08月31日 07:17 コメント 4 件 ☆シュワちゃんと「I am home」☆
皆さん~お早うございます!!お元気でしたか! 海外の友人達と国内旅行や米国への里帰りで、長い間ご無沙汰しておりました。 ブログ友やクラスメートから「行き倒れているのでは?捜索隊を!!」なぁ~んて話は全然出ませんでしたね。(もう~残念!!) お風呂上りに風通しを良くする為、玄関を開けて、「♪ババン ババンバンバン」「♨いい湯だな いい湯だな」なんて良い調子で歌っていたら・・・・隣の「ハルさん」がひょっこり顔を!!! そんな訳ないですよねぇ~ (ハルさんのイメージは、世界最高齢主演女優ギネス記録保持名脇役の=菅井きんさんです。) 冗談はさて置き、今日のタイトルはカリフォルニア州知事を務めたアーノルド・シュワルシェネッガーさんのシリーズ映画で大ヒットしている「ターミネーター」の有名なセリフ「I`ll be back」「また戻ってくるよ!」で私の出戻り「I`m home=帰ったよ!」と引っ掛けた訳です。前置きが少し長すぎてしまいゴメンナサイ。(以後気を付けます・・) 今シュワちゃんの流行っているセリフ言葉で「アスタラビスタ」や「アスタラビスタ・ベイビー」。この意味は「さようなら」「また何時か」と言うスペイン語で、英語で言うSee you laterまたはBye Byeですね。 友達と分れる際、さようならではなく万国共通語的な「チャオ(Ciao)=やあ、こんにちは!じゃあね、バイバイとか色々な意味に使えます。 そして今、流行のシュワちゃんの「アスタラビスタ=じゃあね、バイバイ」を知っていれば最高ですよ!! シュワちゃんも州議会のあるサクラメント市とロスアンゼルスの自宅を自家用ジェットで通勤。(約600キロ 1.5時間) 私も何人か10名~15名乗り小型ジェット機を持っている友人がおりますが、自動車を乗る感覚で免許も日本と違い飛行学校で簡単に取れます。(この違いを聞くと嫌になりますね!・・ったく。 金持ちの中には自宅に滑走路を持ち、株主総会後自宅に直接帰還されるから驚きますね! お付き合い頂き有難う御座いました。 では台風もさり、今日も良い一日をお過ごし下さい。アスタラビスタ!! 写真1: シュワちゃんの仕事場だった(加州議事堂) 写真2: 州知事時代のシュワちゃん 写真3: 金持ち所有のコーポレート・ジェット旅客機
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2016年07月27日 09:43 コメント 5 件 中浜万次郎の陰に隠れた漂流民「完結編」
皆さん~お早うございます! 青山霊園の外人墓地に漢字で「浄世夫彦」と刻まれた墓碑がSitting downしております。 この言い方は彼に取ってComfortableだと私は思います。 彦は日米の格差に愕然とし、日本の近代化には幕府役人だけでなく、庶民一人一人の意識改革が必要と感じる。アメリカ領事館の通訳として働くが、攘夷浪人から外人として狙われるようになり(1861年)3度目の渡米をしている。 3度目の渡米中に「奴隷解放」をした16代大統領のリンカーンと会見しており、「夜明けの前の日本について尋ねられたようです。(彦は米国滞在中、3人の大統領にも会っている唯一の日本人で特筆すべき事と思います)皆さんもリンカーンの名言「人民の人民による人民の為になる政治」は学校で習われた事と思います。 この時期は「南北戦争中」でアメリカも大変な時、マーガレット・ミッチェルが書いた「風と共に去りぬ」の世界でアメリカの南部白人達の貴族文化が消えて行った時代です。 その後の彦は、アメリカと日本の架け橋となり、深く日本の近代化への歴史に関わり続けた人生で様々な事において「初めての日本人」でした。 ジョセフ・彦は日本人女性と結婚し、日本名を浜田彦蔵と名乗りますが、子供はいなかったので子孫はおりません。この辺はジョン・万次郎とは違う所ですね。 明治30年(1897)心臓病で60歳の生涯を閉じております。 幕末にこんな日本人がいたと言う事を、皆さんに知って欲しかった訳で、長々と引っ張ってしまった事を申し訳なく、またお付き合い頂き感謝申し上げます。 有難う御座いました。 (余談)ワシントンにおいて国務省の通訳をしている友人から、浜田彦蔵が書いた英文の自伝上下2冊のオリジナルがワシントンの国立図書館に寄贈されているが、明治にシスコで復刻版が作られたコピーを譲って貰った。江戸時代に書かれた初めての日本人による英文自伝で挿絵も彼が書いており、大変貴重な本で私の宝物です。 英文では「The Narrative of a Japanese 」です。 写真1: 記念館内のリンカーン像 写真2: 風と共に去りぬ 写真3: 万次郎や彦が現在のシスコを見たら驚くであろう
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2016年07月26日 09:24 コメント 4 件 隠れた漂流民「続編7」
皆さん~お早うございます!! 続篇は血の繋がった2人兄弟の兄ちゃんとの対面からですね!! 彦の着物も、物腰も、風采も、酷く変わってしまっており分らなかったようです。 兄ちゃんは苦しさと、うさん臭さとを顔に浮かべて、気の毒にも彦を見つめたまま立っていた。ひよとすると自分の弟ではないのかも知れぬぞ、と思っていたようである。彦は兄ちゃんに一礼して、話の口火を切った。「継父さんは、今どちらですか」「叔母さんのだれそれは元気ですか」「叔父の何兵衛さんは、隣の何衛門はまだ生きて達者ですか」こうした質問で兄はやっと、自分の弟に間違いないと納得してくれた。微笑みが兄の顔に広がり、間違えなく自分の弟だと思えるようになって来ると、兄はわっと泣き出し、長い年月の後に二人が再び会えた喜びに、大粒の涙が頬を流れ落ちた。(書いていて自分でも泣けて来て・・・困ったものですよ!!) 彦は兄さんを領事館に案内し領事に紹介、握手の手を差し出されて、恐れをなしてしまったが、習わしでお辞儀とするのと同じだとの言葉で理解した。 夕食で出てくる料理は食べなれず大変だったようだ。領事から外国紙幣や(銀貨・銅貨)新聞や絵画を土産に貰い、乗って来た仕事の船が停泊している品川から播磨へ戻って行った。 1860年遺米使節団77名がワシントンにおいて批准書の交換があり、アメリカのポーハタン号で向かう。 日本近海を測量中、嵐の為に船を失ったブルックス船長が咸臨丸に同乗して帰国する旨の連絡と、船長より彦にジョン万次郎が同行する旨の連絡があった。その時にジョンの英語と日本語は、どの位出来るかも聞かれた。始めて漂流民経験者二人は合い、30分程話をした記録がブルックス・メモにあり、英語と日本語は完璧な旨も伝わっていた。 (余談)幕府はペリーとの交渉の際もジョン・万次郎を通訳として使う事が検討されたが、彼は日本語の書き言葉が十分でない上、アメリカ側に着くのではと疑われて通訳を降ろされている。どうもこの辺はオランダ通訳達のやっかみがあったようだ。 お付き合い頂きましたが、次回で完結になります。 有難う御座いました。 写真1: ペリー浦賀来航図 写真2: アメリカ人久里浜上陸紅軍 写真3: 左から伊藤博文・桂小五郎・ベッテル・ヒコ
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2016年07月25日 06:29 コメント 6 件 ジョン万次郎の陰に隠れた漂流民「続篇6」
皆さん~お早うございます!! 機嫌よく過ごされていますか! 下田に着いて錨を下すと、合衆国書記官のヒューストンがハリス公使を迎えに来ていた。翌日公使は荷作りを始めたので、彦はミシシッピー号の士官達と上陸し、市場に出かけ士官達の買い物を手伝った。数人の幕府の役人に出会い、髪型や服装が違う「彦」は帰国後始めて日本語を話したそうです。役人達は驚き、アメリカの全ての知識を得たい彼らは酷く興味を彦に持ったようです。(彼の英文自伝より) 彦の継父と兄がたびたび会いに来ていたのを知っていたが、町の人達は誰も2人の事について知らなかったようです。 6月30日ミシシッピー号は下田を出て神奈川港内に入り投錨後、艦長は役人を船室に招き、神奈川に駐在する領事が乗艦している事と江戸条約に明記された通り7月4日を期して開港する件を伝えた。奉行の酒井隠岐守が公使と領事に敬意を表する為に来艦。 合衆国公使は、彦は帰化してアメリカ市民になっているので、アメリカ人として取り扱う様に奉行に要請した。また、酒井隠岐守も要請通りに記録した。 7月21日彦が市役所からの帰り道、住民の一人から呼び止められる。 彦の兄さんが江戸から来て、自分の弟がアメリカから神奈川に帰ったと言う噂を聞いて確かめに来ているとの事を、教えに来てくれたのであった。 その男は「どうです、兄さんの家に出かけますか。それとも、私が兄さんを領事館までお連れしましょうか。」彦は礼を言って、自分で兄の所へ行く旨を伝えて終わっている。 領事に休暇依頼願いを出た所、是非行って来なさいと領事は回答をくれた。心ときめかせて、お兄さんがいる教えられた町を訪ねた。彦にはお兄さんが直ぐに分かった。彦の遭難前にお兄さんは既に大人になっており、少しも変っていなかったからだそうだ。 続きはまたの「続編7」 今日も長々お付き合い頂き有難う御座いました。 素敵なハッピー・マンディーをお過ごし下さい。 写真1: アメリカ連合国最初の国旗(1861年) 写真2: 初代タウンゼント・ハリス公使 写真3: ジョセフ・ヒコ ハマダ
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2016年07月23日 10:14 コメント 4 件 ジョン万次郎の陰に隠れた漂流民「続篇5」
皆さん~お早うございます!!お元気でしょうか。 では、「ゾクゾク」しながら「続編5」ジョセフ・ヒコ「浄世夫・彦」こと浜田彦蔵のお話を進めて行きますね!!所でこの時代の氏名は地名からきており、彦蔵の再婚したお母さんが嫁いだ所、浜田町から、万次郎の場合は中ノ浜海岸が出身なので中浜となる訳です。 前回話しました通り、安政5年(1858)洗礼を受け、アメリカ人になり来日を計画しましたが、幕府の情勢が穏やかではなく、日本に上陸する事無くアメリカに戻っております。 かたやジョン万は江戸幕府に召集され、1853年12月5日ペリーが4隻の黒軍艦で浦賀に来ている年に結婚し1858年4月軍艦教授所の先生となる。皆様ご存じの坂本竜馬・勝海舟との交流や薩長同盟・新選組等々で、世間が騒がしくなっている時期でもあります。 1858年アメリカの総領事ハリスが日本に貿易を始めるための条約を結ぶように強く要求していた。大老の井伊直弼は朝廷や反対の意見を抑えて日米修好通商条約を結んで、これは不平等条約でのちのち大変であった。井伊直弼は朝廷の許可を得ずに条約を結んでしまったので、開国反対派や大名・学者からの批判を受け、反対派処罰して「安政の大獄」で吉田松陰達が罰されてしまう。1860年桜田門の変で暗殺されるのは御承知の通りですね。 彦の帰国前までは大統領との会見や上院議員の秘書になるほど活躍し、彼の有能さが伺える。安政6年(1859)に駐日公使ハリスにより、神奈川領事館通訳として採用され、6月18日に長崎・神奈川へ入港し、9年振りに帰国している。 お兄さんと会たり、ジョン・万次郎の英語力のテスト等の話は次回ゾクゾク編で!! 今日も長々お付き合い頂き有難う御座いました。「写真はネットより拝借」 では、今日も良い土曜日をお過ごし下さい。 有難う御座いました。 写真1: 神田神社内「名所見物異人」 写真2: ハリスに贈られた日本の茶道具 写真3: 「彦14歳」 助けられてサンフランシスコへ
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2016年07月18日 10:15 コメント 7 件 ジョン万次郎の陰に隠れた漂流民「続編4」
皆さん~お早うございます!! では教室のインストラクター美女より、ハイ!!プレミア倶楽部を開いて「学ぶ」に入り、復習を開いて下さい~との掛け声!! そうです!!やってきました「復習の時間」では、Window / iPad,行きますよ・・ハイ開きましよう・・・何処かで聞いたフレーズ!・・な~んて!!何時もやられている反動。 冗談はさて置き、「愛しのクレメンタイン」と「雪山賛歌」の違いは理解出来たと思います。 では、本題の浜田彦蔵のお話に入りますね! 余にもジョン万次郎が漂流民として表舞台に出ており、浜田の事はご存じ無いかと! 最初のブログにも書いた通リ、ジョンと入れ替わりに浜田彦蔵がシスコに来ております。 彦蔵は天保8年(1837年)兵庫県播磨町に生まれ、寛永3年(1850)母の死後、船乗りであった義父と船で江戸に向かい、義父と別れた帰路の遠州灘で暴風にあいました。 約50日間の漂流の末、アメリカの商船に救われ、サンフランシスコへ着いたのは翌年14歳の時でした。(ジョン・万次郎は15歳の時にアメリカ) ここでアメリカ人の父とも言える税関徴収官のサンダースと会った事が、彦の人生を大きく変えております。(ジョン万次郎の場合はアメリカの良識を代表する船長ウイリアム・H・ホイットフィルド=米国東部マサチューセッツ州フェアーヘブン) 両方とも良いアメリカ人に助けられた14歳と15歳で、学校教育も受けさせて貰っている所は、アメリカ人の「偉大さ・寛大さ」で日本の近代化に大きな影響を与えていると言っても過言ではありません。 ペリーが来航した年である寛永6年(1853)、ワシントンで当時の大統領ピーアズと彦は会見する機会を得て、アメリカ大統領とも握手をした初めての日本人でした。 翌年17歳の時に洗礼を受けて、洗礼名のジョセフ・ヒコを使い始めております。安政5年(1858)にアメリアに帰化し、来日を試みますが、幕末の情勢は穏やかではなく、日本に上陸する事なくアメリカに戻っています。またまた、続きは続編で!! 良い一日をお過ごし下さい。 写真1: 1791年レディーワシントン号が紀伊に現れた 写真2: ジョン万やジョセフ・ヒコが居た時のS.F.市役所 写真3: 寛永7年(1854)横浜へ黒船来航
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2016年07月15日 10:43 コメント 7 件 ジョン万次郎の陰に隠れた漂流民「続編3」
皆さん~お早うございます!!お元気ですか!! 「続篇3」に話は進めていきますね。 前置きはとも角、当時は色々な金鉱堀の歌が流行り、皆様のご存じの「荒野の決闘」の主題歌「愛しのクレメンタイン」。ゴールド・ラッシュ最盛期にやって来た49年組「48年に金が発見された翌年の事」娘のクレメンタインが川で溺れ死んだ事を悲しんで歌ったものです。私が好きなサンフランシスコのプロ・フットボール チームの名前がS.F.49ERと呼ぶのは此処から来ている訳です。雪山賛歌の英語版の曲で49ER,49ERと出て来ます。 またまた、余談になってしまいますが、金が発見された傍に「若松コロニー」と言う日本人最初の移住地があります。幕末期、東北の会津藩や庄内藩に武器を売り込んでいたオランダ人スネールさんがおりました。維新後、会津藩との関係を新政府から追及されるようになった為に、アメリカに新天地を求めて日本人の妻(庄内藩士の娘)と子供、それに子守の「おけい・18歳」の他、20名程引き連れて渡米しております。 日本から運んできた茶、菜種、桑、竹、温州蜜柑、黄ぜ、ケヤキ等、また従来から植えてあったブドウなども栽培しました。実はスネールはカリフォルニアでのゴールド・ラッシュの事を知っていて、会津藩の財政を再建しようと藩主に建議したとの記録もあります。 しかし若松コロニ-は、気候風土の関係で栽培は予定通りに行かず、生糸の生産計画も失敗。 スネールは1870年、ついに一行を置き去りにして妻子を連れて、ひそかに日本へ帰国している。スネール一家に置き去りにされた「おけい」は近所のヴィァ・キャンプ婦人に保護されて、家事、料理、裁縫などを習い同家で暮らしていたが、1871年に病を患って、異郷でのわびしい生涯を閉じております。享年19歳 一行の中の農夫、桜井松之助はおけいの死を悲しみ、石工に頼んで大理石に自ら「おけいの墓」と書いて掘らせて、農園の一角に立てております。 お付き合い有難う御座いました。また、続編に続きます。 良い一日をお過ごし下さい。 写真1: カリフォルニア・サクラメント州議会議事堂 写真2: サクラメントからコルマ迄使用した同型汽車 写真3: フットボール・チーム(右下2番目がS.F.49ER)
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2016年07月14日 10:24 コメント 9 件 ジョン万次郎の陰に隠れた漂流民「続編2」
皆さん~お早うございます!!お元気ですか!!それでは続きの話にはいりますね! ジョン・万次郎が日本へ帰国し武士に取り立てられ帯刀を許されますが、日本帰国前「万次郎の金探し」の話を少ししますね。 サンフランシスコより北に車で2時間半程行った所「コルマ」で1848年、金が発見され世界中にニュースが飛び交い、万次郎も東部で耳にしました。 日本帰国前に少しでもお金を増やすために、万次郎は東部から南米回りでシスコに入り、サクラメント川を船で遡りコルマに入っております。カリフォルニア州の首府が置かれている街「サクラメント」は首都でシュワちゃんが州知事をしていた場所の北に位置します。 徳川幕府の鎖国時代でゴールド・ラッシュに参加した唯一人の日本人で興味深いです。 日給6ドルで、最初雇われたオランダ人はならず者で、40日働いたが賃金が貰えず、友人と一緒に独立。風紀や治安が悪く衛生状態も酷かったので、1か月後に体を壊して金探しを辞めてしまうが、一カ月で約600ドルの収入と東部で働いた蓄えが300ドルあったので計900ドル持って帰国します。万次郎は帰国後、幕府の役人の前でコルマでの生活やゴールド・ラッシュ「金山歌」なる歌を歌ったようです。これは皆さんもご存じかと思いますが「おお、スザンナ」です。 I am bound to California with banjo on my knee・・・てな歌です。この歌はフォスターの替え歌で金が発見された1848年当時の大ヒット曲です。 おお、スザンナ、私の為に泣かないでおくれ、私はカリフォルニアに行くので、洗面器を膝において・・Oh, Susannah don`t you cry for me, I`m going to California with my wash-bowl on my knee・・・カリフォルニアに行くのに、洗面器とはなにやら可笑しい取り合わせですが、これは砂を洗い流しながら金を選り分けるパン(鍋)のことです。 江戸末期の爲、写真はネットより拝借、では、またの続編へ乞うご期待!! では、今日も良い一日をお過ごし下さい。 写真1: 万延元年のゴールド・ラッシュの街「コルマ」 写真2: 東部から西部への船旅案内 写真3: 砂を洗い、金を選り分けるパン(鍋)
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2016年07月05日 10:51 コメント 7 件 ★ルノワール展と国立新美術館★
皆さん~お早うございます!! 今日は友人達と乃木坂にある国立新美術館の「ルノワール展」と館内でやっている「日本水墨画展」和洋折衷二刀流の鑑賞を楽しんできました。 3月に友人達と町内一周で上野美術館エリアを総なめで、帰りに「国立新美術館」に寄り道、今回で2回目の訪問となった訳です。 雅女史が一番好きな美術館で、毎回訪問時に此処を設計した黒川紀章さん~・・・会いに来たわよ~と言っているとか、言わないとか・・・??? さしずめ、私なら黒川さんの奥さんの若尾文子さんに「来たよ!!」失礼、関係ないすね! フランス印象派・近代絵画の巨匠、ルノワールさんの代表作が集結したので混雑を極めました。良く観察していると80%が女性で、男性は寂しい限りですよ。~ったく!! もう少し殿方も、「ただのオジサン」化して「サンデー毎日」なのだから、アカデミックな時間をサポートしてコミュニティに参加すればと思いますが~(此処は弱めに!!) ブログにもアップされていた(田舎のダンス/都会のダンス)エリアは洪水状態でした。 1880年(明治13年)に「舟遊びをする人々の昼食」で帽子を被り、犬を抱く女性と田舎のダンスを踊っている女性が恋人のアリーヌ・シャリゴで、イタリア旅行も同行して1885年(明治18年)に息子のピエールが生まれ、どうも出来ちゃった婚ですね。 正式に結婚したのは1890年(明治23年)と中々籍を入れなかったようですね。 まあ、私としては「陽光を浴びる裸婦」や数多くの「浴女」の絵があり、目の置き場に困りましたよ!! 後ろから、嘘つけとの言葉が返ってきそうなので止めおきます。 19世紀中頃の万博博覧会へ日本美術の出品をきっかけに、ヨーロッパの作家達はジャポニズムの影響を受けていますね。 ルノワールを始め、マネ/モネ/ゴーギャン/ゴッホ/ドガ等々沢山の方々がおり、葛飾北斎/喜多川歌麿/安藤広重等の影響も凄く、あまり興味が無かった小生も勉強になりました。 水墨画展と青山霊園は次回にお話ししますね。 今日も長々お付き合い頂き有難う御座いました。 良い一日をお過ごし下さい。 写真1: 大学後ろが国立新美術館 写真2: 「ムーラン・ド・ラ・キャレット舞踏会」 写真3: 国立新美術館から六本木ヒルズ
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