「yasu」さんのブログ一覧
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2022年04月10日 07:35 コメント 2 件 やらまいか3-2
今回はカワイのピアノについて書いてみます。 かっては数十社が浜松にあったのですが現在は二社になっているのですが、その歴史をカワイを通して書いてみたいと思います。 山葉寅楠の弟子入りしたのが河合小市は11歳明治29年です、車大工の家に生まれ職人気質腕のいい親父のDNAを引き継ぎ、馬に曳かせる馬車の小さい馬車を造り子犬に曳かせて近所を走り回っていた。寅楠と懇意にしている林次郎の目に留まり出来栄えの素晴らしさにビックリして山葉寅楠に合わせる、小市もオルガンを造っている仕事に興味を持ち連れてきたその日から弟子入りして働くようになる。子供ながら器用で手際の速い仕事をこなし寅楠の頼れる弟子になる。当時ピアノアクション(打弦装置)は輸入に頼ていて自社で作れないものかと研究をしていたが、とうとう諦め寅楠はピアノ造りのためアメリカ視察に行く留守中にアクションの開発を小市に頼んでいく。-明治32年4月30日に渡米~9月22日に帰国半年の間にアクションを完成させた、寅楠は小市からアクションの完成を聞き涙を流して喜んだという。 オルガン造りやピアノ造りも拡大していき明治から大正へと移り工場の働く人も多くなってくると、労働者達は職場環境改善を会社に要求をする大正末期のこと、大正5年8月山葉寅楠が倒れてから2代目社長天野千代丸の時の事、日本楽器労働争議があり日本労働争議史に残るほどの大争議でした1926年4~7。この争議の後天野千代丸社長は辞任して3代目川上嘉市社長に代わり、小市は会社のごたごたに嫌気がさし社長とともに日本楽器を退社する、弟子入りしてから30年が経った。昭和2年小市と共に働いてきた技術者7人も会社を退社して、河合楽器研究所を立ち上げる。浜松駅南に何もないところからバラックの工場を建てピアノ生産をしていく。 当時のピアノは千数百円と高価であったが、5オクターブと音域を狭め小さなピアノを造り350円で販売した。昭和型ピアノが大当たりしてよく売れていく。二代目河合滋社長が販路を拡大して生産台数を大幅に増産する。 1985年第11回ショパンコンクールの公式ピアノに認められる。河合小市の願いは「世界一のピアノづくり」である。 1)昭和型ピアノ 2)ショパンコンクール公式ピアノ 3)クリスタルピアノ(透明ピアノ)
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2022年04月01日 09:14 コメント 2 件 やらまいか3-1
浜松のピアノについて。 ピアノの歴史は明治30年に第一号のピアノが出来ましたが、いきなりピアノが出来たわけではなくその前に明治18年にオルガンが出来たのです。 紀州藩に生まれた山葉寅楠は時計の修理・医療機器の修理をして、当時浜松五社神社前に浜松病院の医療機器の修理に浜松に滞在中に元城小学校のオルガンの修理をしたのがきっかけです。 当時のオルガンはアメリカからの輸入で45円(現在なら4500万円)と高価なもので、壊したらた大変と誰も修理に手を出すものがいませんでした。そんなとき山葉寅楠にお願いしたところ、心よく受けてくれたのです。修理をし図面を作成した、手先の器用な寅楠は、私なら3円で造れますのでお手伝いしてくれる人は居ませんかと飾り職人の河合喜三郎さんに相談を持ちかけ大工職人・鍛冶屋職人・塗装職人などを集め3か月でオルガンを完成させたのです。 調律が悪く苦評であり、調律を学び再度オルガンの製作に取り掛かり完成したオルガンは13円で売れ、いよいよ本格的に生産が始まり、次第にピアノへと興味が移り。明治30年に第一号のピアノが完成したのです。 戦後は浜松にピアノを造る会社が数十社ありました、しかし中小は自然淘汰され今ではヤマハとカワイの二社しか残りません。1985年からショパンコンクールの公式ピアノにヤマハもカワイも認められているのです。 豊富な木材と職人が居りオルガン・ピアノの製作には欠かせない。山葉寅楠・飾職人の河合喜三郎・アクション発明の河合小市のやらまいか精神が今に伝わる。 3)ショパンコンクールの公式ピアノ
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2022年03月29日 18:08 コメント 2 件 花冷え
寒い一日になりました。 外は桜が満開ですね、早朝からカメラを持って吉田公園に行ってきました、風が強くて花も揺られて寒そうでしたが今が花の種類が多くて春を感じます。 花を見て春を感じますが、土の匂いも春を感じます。 今の時期しか匂いません、草でもなく花の香でもなく土の匂いです、臭い匂いではありません。 しばらくすると匂わなくなります、私だけでしょうかね。 2枚目の写真 ひげ爺に見えませんか
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2022年03月14日 22:55 コメント 2 件 やらまいか2-2
今回はヤマハのオートバイについて書きたいと思います。 ヤマハとヤマハ発動機と二社ありますがオートバイはヤマハ発動機のほうです、最初に作ったオートバイは1955年(昭和30年)です、ホンダが最初のオートバイは1947年、スズキが最初のオートバイが1952年ですのでヤマハ発動機はかなり後発のオートバイメーカです。 「楽器屋さんがオートバイを造るんだって」と社内でそんな物できるかよとささやいていたそうだ。 戦前は飛行機のプロペラを造りかなり精度の良いプロペラを造り当時ではシェア60%を占めていたのでかなり精度の良さがうかがえる。 戦後は平和産業にもどり1947年にピアノの生産を再開、1950年に川上源一新社長が就任、精度の高いプロペラ生産をしていたのでわが社にオートバイが造れないわけがい、一緒にやらまいかと声をける1953年オートバイエンジンの試作から始まる、当時の浜松ではオートバイの人気は高くかなり触発されたのではないか。 モデルとなるオートバイがあり、ドイツのDKW125が試乗して乗り心地が良いので参考にて1955年一号車YA-1(通称赤トンボと呼ばれる)完成、それからオートバイ部門は日本楽器株式会社から独立して1955年7月1日ヤマハ発動機株式会社が発足する。オートバイレース活躍し性能のが認められ大きく発展していく。 今ではトヨタ車のエンジンを供給する、トヨタ2000GTはヤマハ発動機との共同開発の車です。 しかし第一号オートバイは楽器屋さんの造ったモノですね。 1)YA-1【赤トンボ) 2サイクル125CC 2)DKW125 (モデル車) 3)トヨタ2000GT
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2022年03月09日 19:19 コメント 4 件 やらまいか2-1
オートバイの歴史その2、今回はスズキのオートバイの歴史を紐解いてみようと思います、 江戸時代から浜松は綿が盛んに栽培され、糸を紡ぐで綿に織るのが農家の副業であり盛んであった。 綿を織るには手織機械が盛んに作られていた、この機械が次第に進歩していき織機産業としての一時代を築き上げていった、明治の時代には西洋からの織機が入り手織機から自動織機へと変わりますます浜松地域の綿織物は安くて早くできたので一大産業にまで発展する。当時は豊田佐吉(トヨタ)・鈴木道雄(スズキ)・阪本久五郎(遠州製作所)などが自動織機メイカーとして名を上げた。国内はもとより東南アジアにも広く知れ渡ったが、半永久的に寿命を持ち、事業としての限界を感じていた。次なる産業はと思い付いたのが小型自動車であり1936年に小型自動車の開発を始める。1940年戦争が激化し始め軍需品増産命令が出され、小型自動車の開発は一時中断する。1951年経営が一新して2代目社長鈴木俊三が戦前からエンジンの開発を再開する。1953年自転車に自社開発のエンジンを取り付けパワーフリー号を完成し大きな一歩を踏み出す。1955年長年の夢だった小型自動車スズライトを完成させ、鈴木式織機株式会社から鈴木自動車株式会社に社名を変更する。 1936年 小型自動車の開発を始める 1939年 4サイクル4気筒750CC、FR試作車完成、ホンダ車より27年前に小型自動車完成、ホンダは1966年より軽四輪車生産開始 1940年 戦争が激化し始め軍需品増産命令、小型自動車の開発は一時中断する 1952年1月 2サイクル30㏄エンジンを自転車に取り付けるパワー不足より改良、4月 36㏄エンジンを付けたパワーフリー号を完成 1953年 ごろホンダのバイクに触発され浜松地域に30社ほどバイクメーカーがあった。五台メーかーといわれ、一日五台生産する小規模会社 1953年3月 60㏄エンジンダイヤモンドフリー号を完成 1954年スズキ・ホンダ・ヤマハと三大オートバイが出来、次第に中小メーカーは淘汰される 1955年小型自動車スズライトを完成
遠鉄百貨店教室yasu さん -
2022年03月01日 07:14 コメント 4 件 やらまいか2
今回はオートバイが浜松になぜ集中しているか。ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキと4社あり、そのうち3社は浜松から発展していきました。 ホンダについて書いていこうと思います、ホンダの創業者は本田宗一郎です、浜松市天竜光明村明治39年生まれ、6歳の時初めて自動車を見たときから「自分の手で世界一の車を作る」夢を持ち。大正11年二俣高等尋常小学校を卒業すると東京の自動車修理工場アート商会に丁稚奉公に行き、社長の榊原侑三はのれん分けをし、22歳で浜松にアート商会浜松支店を開業して車の修理工場を始める。寝る暇を惜しんで仕事をして金がたまると芸者をよんでとことん遊ぶ、中途半端なことはしない、いい仕事をすることで評判になり、自転車にエンジンを付けてオートバイを造りこれが評判を呼び、どんどん規模を大きくしていく。オートバイレースでよい成績を残しF1レースにも参戦していく。 猪突猛進どんな苦労も目標が決まれば結果が出るまであきらめない、口より先に手が出てしまい工具を投げつけ怒鳴りつける、気の短い宗一郎だが人間的魅力があり社員は離れない。若い技術者たちとよく意見を戦う、宗一郎の意見に負けてしまう。しかし1967年3月発売N360の空冷エンジンで大きく四輪へシフトし大きな発展をするものの時代は水冷エンジンに替わりつつあり、若いエンジニアはこれからは水冷の時代だと宗一郎と真っ向対立して、次第に若いエンジニア達に道を譲った、1973年67歳で社長を引退する。 器用さとアイデアで最後までやり遂げるエネルギーと遠州の「やらまいか精神」が浜松のホンダから世界のホンダをへと発展する。 もちろん妻のさちさんの支えと藤沢武夫副社長の存在も大きい。 〔「本田宗一郎伝」著者中部博)を読んで小説よりおもしろい。 1)1号オートバイ 2)社員が出来上がりを見て夢のようだと発した(ドリーム号) 3)浜松市中区山下町
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2022年02月01日 19:36 コメント 2 件 やらまいか1
江戸時代は伊豆・駿河・遠州と国が三つに分れれていたもちろん風土・習慣・気質も分かれていて近くて遠い国だった。 伊豆詐欺といわれ、海と切り立った崖下の海岸しかない伊豆人はずっと 貧しい生活をして周り人々の心を読み妥協点を探し折り合いをつけていた。食えなくなると巧妙に知恵を絞り詐欺をした。伊豆人は心を読むのが得意だ。 駿河乞食といわれ、豊かな土地で江戸時代は天領が多く税金も低かった、豊かなゆえに気迫に欠けるところがあり、食えなくなれば乞食になるしかない。 遠州強盗といわれ、暴れる天竜川・冬のからっ風・潮の流れが早い海に囲まれ気性が荒かった。 明治維新に時流をつかむのが巧い浜松藩の家老伏谷如水(ふせやじょすい)を駿府藩に送り込み政権を一手に握り不穏な動きのある佐幕派を抑えて内乱を抑えた、その時起用した人物が侠客の清水次郎長であった。遠州には政権を強奪してとんでもない人物を起用するあまり常識では考えられない発想を持った考え方をするものである。「やらまいか」気質が昔からあったようだ。 伊豆は今では温泉と美味しい魚があり日本有数の観光地です(詐欺ではなく)。駿府は職人が多く、手先の器用なモノづくり竹細工・下駄・家具とプラモデルは日本一の産業であり、地域の特性を今に伝えている。 『「浜松企業」強さの秘密』著者竹内宏 より やらまいかシリーズ、次回は浜松の産業、オートバイと楽器の街を書きます。
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2022年01月01日 16:25 コメント 6 件 あけましておめでとうございます。
2022年 非常に寒い新しい年が明けました。 すっきり真っ青な空です、初日の出にはまに合いませんでしたが、富士山静岡空港からの雲一つない写真が撮れました。 ここから南アルプス・伊豆半島・駿河湾が見え絶景の場所です。 帰り道畑の隅に菜の花が咲いていました、寒さにも負けずにしっかりと日を浴びて咲いている姿は温かさを感じます。 ブログの皆さんにとって良い年でありますように、今年もよろしくお願いします。 富士山静岡空港からの富士山 南アルプス 菜の花
遠鉄百貨店教室yasu さん -
2021年12月08日 17:58 コメント 6 件 仏像彫刻展
仏像彫刻展を観てきました。 仏像にはあまり興味もないのですが、私の居る近くに仏師がおりまして、7日~8日と仏像彫刻展を開催しました。 かなりローカルな地元の公民館での開催、多くの人が見学に見えていました、先生が小学生の児童を連れて観にも来ていました。 小さいの(10cm)から大きいのまで(60cm)40点ほどが展示してありました、細かいけれど顔の表情が穏やかで流石仏様です、手を合わせたくなります。私みたいに知識のないものが観てもじっと見つめてしまいます。穏やかな気持ちになります。 彫師中島雅之さんはいつも穏やかな人柄で、仏像にもその表情が出るんですね。 勤めをしながら時間を見つけては彫り続けていました匠の技です。
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2021年12月01日 10:54 コメント 3 件 これから寒くなります。
師走とは思えないくらいの温かい朝です。 少しずつ寒くなり外に出るのがだんだん億劫になります。 冬をどう過ごしたかで大きく健康に左右されます、温かい部屋で炬燵に入いいて過ごすことが多くなると、体調がすぐれなくなりますね。少しは外に出てウォーキング・ランニングなどをして寒い冬を乗り越えましょう。 近くの神社(勝間田公園)の階段を上り下りしています、いつまで続くか分かりませんが寒い冬を乗り越えようと思います。 寒い冬を過ごした桜はきれいですね、北の桜ほどきれいに咲くように見えます。
遠鉄百貨店教室yasu さん