海老名マルイ教室
kaori さん
江ノ島の地に歴史散歩
2012年02月21日 16:00

二、三日前の新聞に日本を攻めてきた蒙古(モンゴル)軍が沈没した場所を海底遺跡に指定と書いてありました。
たまたま「常立寺」というお寺にその当時国使としてモンゴルから5人来たそうですが、そのまま帰らせると国情がわかってしまうということで、処刑してしまいこのお寺に埋葬されたとのことです。モンゴルの元横綱さんもこの地を訪れたということで写真がありました。
満福寺は源義経の腰越状で歌舞伎などの一場面などでみたことありがそれを書いた場所とのことです。あの書状は弁慶が書いたそうで建物の正面の飾り彫りに見られます。
腰越という名前の由来も悲しい物語があることを知りました。昔は子死越といわれて山に5つつの頭をもつ龍がいて村の庄屋さんの子供15人をつぎつぎと食べてしまい、悲しい名前になってしまったのですね。
写真① 満福寺。
② 満福寺の境内にありました。
③ 常立寺にありました御地蔵さん。
たまたま「常立寺」というお寺にその当時国使としてモンゴルから5人来たそうですが、そのまま帰らせると国情がわかってしまうということで、処刑してしまいこのお寺に埋葬されたとのことです。モンゴルの元横綱さんもこの地を訪れたということで写真がありました。
満福寺は源義経の腰越状で歌舞伎などの一場面などでみたことありがそれを書いた場所とのことです。あの書状は弁慶が書いたそうで建物の正面の飾り彫りに見られます。
腰越という名前の由来も悲しい物語があることを知りました。昔は子死越といわれて山に5つつの頭をもつ龍がいて村の庄屋さんの子供15人をつぎつぎと食べてしまい、悲しい名前になってしまったのですね。
写真① 満福寺。
② 満福寺の境内にありました。
③ 常立寺にありました御地蔵さん。
kusamotiさん コメントありがとうございました。
満福寺のなかも天井一面が龍の鎌倉彫になっていたり、義経と静の別れの場面の絵などいろいろと見るものがあります。
1万5千歩ぐらい歩きましたが都会の喧騒と違い、ゆったりしたひと時を過ごせました。
満福寺のなかも天井一面が龍の鎌倉彫になっていたり、義経と静の別れの場面の絵などいろいろと見るものがあります。
1万5千歩ぐらい歩きましたが都会の喧騒と違い、ゆったりしたひと時を過ごせました。
kaoriさん
鎌倉へ行かれたのですね。
義経は悲運の判官として、物語や戯曲によく取り上げられます。
腰越状のくだりでは、頼朝のつれない仕打ちに怒り、歌舞伎名場面の安宅関では、はらはらしながらも弁慶の咄嗟の勧進帳朗読に筋書きは知っていてもドキドキ。
次回、満福寺に歴史の一端を見つけに行きたいと思います。
鎌倉へ行かれたのですね。
義経は悲運の判官として、物語や戯曲によく取り上げられます。
腰越状のくだりでは、頼朝のつれない仕打ちに怒り、歌舞伎名場面の安宅関では、はらはらしながらも弁慶の咄嗟の勧進帳朗読に筋書きは知っていてもドキドキ。
次回、満福寺に歴史の一端を見つけに行きたいと思います。
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