海老名マルイ教室
kaori さん
真田丸の歴史を訪ねて長野へ 続き
2016年06月10日 18:55



関ケ原の合戦で親子が東軍西軍に分かれて戦い、昌幸、幸村親子は敗れて死罪になるところを徳川の軍にいた長男の信之の助言により九度山に蟄居となり、昌幸はそこで亡くなり幸村はまた大阪城に出城として真田丸を築きそこで息子とともに討ち死にする。
信之は信州上田から松代に移封となり松代藩真田家の初代藩主となる。
長国寺は真田家の菩提寺で本堂の裏手に信之の御霊屋があります。国指定重要文化財でとても素晴らしく扉を開けて見せていただきましたが天井絵は狩野探幽筆と伝えられています。
奥まったところには真田家一族のお墓もありました。
海野宿は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で諸大名が参勤交代で通った道であり善光寺への参詣客も多くありましたが明治時代には宿場の機能が失われ養蚕の村へと変わりました。
建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げて小屋根を付けたものが江戸時代の卯建(うだつ)であり防火壁の役割を果たし(火返し)とも呼ばれ富裕の家でなければできなかったので(うだつがあがらぬ)という言葉が生まれたようです。
3枚目の地蔵さんはあまりに表情が素晴らしいので写したものです。
信之は信州上田から松代に移封となり松代藩真田家の初代藩主となる。
長国寺は真田家の菩提寺で本堂の裏手に信之の御霊屋があります。国指定重要文化財でとても素晴らしく扉を開けて見せていただきましたが天井絵は狩野探幽筆と伝えられています。
奥まったところには真田家一族のお墓もありました。
海野宿は中山道と北陸道を結ぶ重要な街道で諸大名が参勤交代で通った道であり善光寺への参詣客も多くありましたが明治時代には宿場の機能が失われ養蚕の村へと変わりました。
建物の両側にある妻壁を屋根より一段高く上げて小屋根を付けたものが江戸時代の卯建(うだつ)であり防火壁の役割を果たし(火返し)とも呼ばれ富裕の家でなければできなかったので(うだつがあがらぬ)という言葉が生まれたようです。
3枚目の地蔵さんはあまりに表情が素晴らしいので写したものです。
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