錦糸町マルイ教室
柳 秀三 さん
2679 安積開拓・疎水
2022年06月12日 18:26


安積疎水(あさかそすい)は、猪苗代湖より取水し、福島県郡山市とその周辺地域の安積原野に農業用水・工業用水・飲用水を供給している疎水である。水力発電にも使用される。
那須疎水、琵琶湖疎水と並ぶ日本三大疎水の1つに数えられている。
年間雨量が1200mmにも満たない当地は、疎水が引かれる前は、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であったこともあり、荒涼とした安積原野となっていた。安積原野を流れる五百川、藤田川、逢瀬川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、安積原野にあるため池群も流入河川がなく旱魃(かんばつ)の影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地しか用途がなかった。
一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。そこで、1878年(明治11年)にお雇い外国人のオランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し、猪苗代湖から安積原野一帯の調査を行い、その調査の結果、安積疎水の開削を政府に決断させた。1879年(明治12年)、国直営の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設され、隧道・架樋等、延べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した。灌漑区域面積は約9000haと広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。なお、郡山市は、平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は、米穀生産日本一の市であった。
1898年(明治31年)には疎水に水力発電所が設置され、その電力を利用した製糸業が発達した。また、1908年(明治41年)からは飲用水としても利用して、当地の人口増加を支えた。
明治政府の重鎮として、疎水事業の実現に尽力した大久保利通を祀る「大久保神社」が郡山市郊外にある(社殿・鳥居はなく記念碑のみ)。
2002年に疎水の水路は土木学会選奨土木遺産に選ばれた。2016年には、日本遺産の一つとして「未来を拓いた「一本の水路」~大久保利通“最後の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代~」が文化庁より選ばれた。また同年、かんがい施設遺産に登録。
(Wikipediaの「安積疎水」を、タイピングで写す)
柳 秀三
那須疎水、琵琶湖疎水と並ぶ日本三大疎水の1つに数えられている。
年間雨量が1200mmにも満たない当地は、疎水が引かれる前は、阿武隈川に向かって傾斜して水利が悪い丘陵地帯であったこともあり、荒涼とした安積原野となっていた。安積原野を流れる五百川、藤田川、逢瀬川、笹原川などの河川は流域面積が小さく、安積原野にあるため池群も流入河川がなく旱魃(かんばつ)の影響を受けやすく、広大な原野は牛馬の餌となる牧草を取る入会地しか用途がなかった。
一方、明治維新の最中、各地で士族の反乱が起こり、その対策として安積原野開拓が脚光を浴びるようになる。そこで、1878年(明治11年)にお雇い外国人のオランダ人技師ファン・ドールンを現地に派遣し、猪苗代湖から安積原野一帯の調査を行い、その調査の結果、安積疎水の開削を政府に決断させた。1879年(明治12年)、国直営の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設され、隧道・架樋等、延べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路工事が僅か3年で完成した。灌漑区域面積は約9000haと広大で、当地を一大穀倉地帯に変えた。なお、郡山市は、平成の大合併により市域を広げた新潟市が誕生する前は、米穀生産日本一の市であった。
1898年(明治31年)には疎水に水力発電所が設置され、その電力を利用した製糸業が発達した。また、1908年(明治41年)からは飲用水としても利用して、当地の人口増加を支えた。
明治政府の重鎮として、疎水事業の実現に尽力した大久保利通を祀る「大久保神社」が郡山市郊外にある(社殿・鳥居はなく記念碑のみ)。
2002年に疎水の水路は土木学会選奨土木遺産に選ばれた。2016年には、日本遺産の一つとして「未来を拓いた「一本の水路」~大久保利通“最後の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代~」が文化庁より選ばれた。また同年、かんがい施設遺産に登録。
(Wikipediaの「安積疎水」を、タイピングで写す)
柳 秀三
記録
食事のときに、舌先を誤って噛んでしまったせいで、舌先が切れ、血が出て、腫れた。
翌日、腫れが退いてきたが、こんどは白い綿みたいなものが傷口に発生し、綿は大きくなった。
この綿は、たぶん、かさぶたみたいなものだろうと思っていたら、やはりそうみたいである。
今日、夕食でカップうどんを食べたあと、鏡で確認したら綿が無いのである。
傷が治ったからかさぶたが取れて、俺が食べたみたいである。
切れ目がそのまま残って、舌先に肉片がぷらんぷらんしないだろうかと、変な想像をしたが、それもなく、綿が最後まで付いていたところが、ポツンと赤く感覚もまだ変であるが、心配ないようである。
柳 秀三
食事のときに、舌先を誤って噛んでしまったせいで、舌先が切れ、血が出て、腫れた。
翌日、腫れが退いてきたが、こんどは白い綿みたいなものが傷口に発生し、綿は大きくなった。
この綿は、たぶん、かさぶたみたいなものだろうと思っていたら、やはりそうみたいである。
今日、夕食でカップうどんを食べたあと、鏡で確認したら綿が無いのである。
傷が治ったからかさぶたが取れて、俺が食べたみたいである。
切れ目がそのまま残って、舌先に肉片がぷらんぷらんしないだろうかと、変な想像をしたが、それもなく、綿が最後まで付いていたところが、ポツンと赤く感覚もまだ変であるが、心配ないようである。
柳 秀三
記録
母親の父親(俺の祖父)のたぶん父親(母親の祖父、俺の曽祖父)の時代に、九州・福岡久留米から、安積に入植したらしい。母の言によると、祖父の兄弟も同じ辺りに住んでいたとのこと。そして、祖父は現地の女性を娶り、母と母の兄弟姉妹が生まれ、育った。
いまは仙台市に次ぐ東北地方第2の都市と呼ばれるが、そもそも、郡山という土地は、周辺の二本松などに比べてもマイナーな土地である。二本松城はあっても郡山城はない、安積(あさか)という土地であった。母親の実家も、いまは郡山市だが、もとは安積郡大槻町である。
なぜ栄えたのかというと、このとおり安積開拓・安積疎水のおかげらしい。
柳 秀三
母親の父親(俺の祖父)のたぶん父親(母親の祖父、俺の曽祖父)の時代に、九州・福岡久留米から、安積に入植したらしい。母の言によると、祖父の兄弟も同じ辺りに住んでいたとのこと。そして、祖父は現地の女性を娶り、母と母の兄弟姉妹が生まれ、育った。
いまは仙台市に次ぐ東北地方第2の都市と呼ばれるが、そもそも、郡山という土地は、周辺の二本松などに比べてもマイナーな土地である。二本松城はあっても郡山城はない、安積(あさか)という土地であった。母親の実家も、いまは郡山市だが、もとは安積郡大槻町である。
なぜ栄えたのかというと、このとおり安積開拓・安積疎水のおかげらしい。
柳 秀三
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