錦糸町マルイ教室
柳 秀三 さん
2255 でっけぇやま
2021年08月29日 01:44

明治政府が東北地方の開発を直接国費で実施するようになるのは、1877年(明治10年)頃からで、その第一号として郡山が選ばれた。 これが世に言う「安積(あさか)開拓」である。
明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと決まった国営安積開拓事業は、もともと水利が悪かったこの地に、山を越えて、猪苗代湖から疏水(そすい)を開削して原野を開発し、封建制度の廃止により職を失った失業士族を入植させようというものであった。
安積疏水の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、9藩から約500戸、2,000余の人々がやってきた。この入植の第一陣が、久留米士族であった。これを機に、岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集まった。実に延べ85万人の人々が携わり、3年の月日を費やした大事業であった。
Wikipedia(福島県郡山市の歴史)より
~~~~~~~~
福島県郡山は俺の母親の出身地である。
母いわく、母の祖父のときに九州久留米から移り住み、母の若いときには久留米の親戚とも交流があったという。
母は、自分の出身は郡山市だと話す。
確かに、母の実家のある郡山市大槻町は、1955年3月31日に編入合併で郡山市の一部になったから郡山市である。
しかしながら、母は、その合併以前に結婚して東京に住んでいる。
だから、母は福島県安積郡大槻町に実家があり結婚前はそこで暮らしていたが、郡山市民だったことは一度もないのである。
( ̄ー ̄)ぷ♪
さらに遡ると、おふくろの家は大槻町に移るまではすぐ北隣の同じ安積郡の片平町にあり、おふくろはそこで出生している。
そして、おふくろが小学校二年のときに、大槻町に引っ越した。
詳しく地図を見ると、郡山市片平町に「出磬山」と言う地名がある。
なんて読むのか調べると、「でけいやま」というらしい。
俺は、アッと思った。
おふくろが故郷を語るときに、「でっけぇやま」と言うワードが出ることがある。
「でっけぇやま」は、地名なんだ。
おふくろにそのことを教え「暖かくなったら郡山のでっけぇやまあたりに行こうよ」と、おととし言っていたら、COVID-19 のパンデミックになってしまった。
柳 秀三
明治政府の士族授産と殖産興業の方針のもと決まった国営安積開拓事業は、もともと水利が悪かったこの地に、山を越えて、猪苗代湖から疏水(そすい)を開削して原野を開発し、封建制度の廃止により職を失った失業士族を入植させようというものであった。
安積疏水の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、9藩から約500戸、2,000余の人々がやってきた。この入植の第一陣が、久留米士族であった。これを機に、岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集まった。実に延べ85万人の人々が携わり、3年の月日を費やした大事業であった。
Wikipedia(福島県郡山市の歴史)より
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福島県郡山は俺の母親の出身地である。
母いわく、母の祖父のときに九州久留米から移り住み、母の若いときには久留米の親戚とも交流があったという。
母は、自分の出身は郡山市だと話す。
確かに、母の実家のある郡山市大槻町は、1955年3月31日に編入合併で郡山市の一部になったから郡山市である。
しかしながら、母は、その合併以前に結婚して東京に住んでいる。
だから、母は福島県安積郡大槻町に実家があり結婚前はそこで暮らしていたが、郡山市民だったことは一度もないのである。
( ̄ー ̄)ぷ♪
さらに遡ると、おふくろの家は大槻町に移るまではすぐ北隣の同じ安積郡の片平町にあり、おふくろはそこで出生している。
そして、おふくろが小学校二年のときに、大槻町に引っ越した。
詳しく地図を見ると、郡山市片平町に「出磬山」と言う地名がある。
なんて読むのか調べると、「でけいやま」というらしい。
俺は、アッと思った。
おふくろが故郷を語るときに、「でっけぇやま」と言うワードが出ることがある。
「でっけぇやま」は、地名なんだ。
おふくろにそのことを教え「暖かくなったら郡山のでっけぇやまあたりに行こうよ」と、おととし言っていたら、COVID-19 のパンデミックになってしまった。
柳 秀三
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