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ねこまる子の部屋(ゆる〜く更新)

 越谷サンシティ教室  ねこまる子ちゃん さん

丁髷(ちょんまげ)(1)*348

 2021年06月23日 16:39
この記事は、私が調べてまとめたものです。
元々は、ブログや音声配信のためのメモ書きです。

1.日本の髪型の変遷

①奈良時代以前~
「角髪(みずら)」という独特の髪型が一般的だった。
髪全体を中央で二つに分けて耳の横でそれぞれ括くくって垂らす簡単なものである。
垂らした髪は、そのまま輪にするか、輪の中心に余った髪を巻きつけて8の字型に作るものがある。

天武11年(683年)「結髪令」が布告される。男も女も髪を結うようにということだ。
これは遣隋使や遣唐使で、中国王朝の文化や政治制度を学ぶようになったからである。
日本でも身分の序列を一目で見分ける為に、冠を被るようになった。
頭髪を後頭部でまとめて紙や紐で巻いて立てて、それを冠や烏帽子の中に入れていた。
これが冠の下の髻(もとどり)と呼ばれる髪型である。

ちょんまげの直接の原型は、この髻(もとどり)である。
(志村けんさんのバカ殿の髪型!)

②中世(武士の世の中)
合戦で兜をかぶると兜が頭に密着して蒸れるので、頭の前面から頭頂の髪を抜いた。
これが「月代(さかやき)」である。
つまり、ちょんまげは、「髻」と額の部分である「月代」のふたつがドッキングしたものである。
そして、当時は、月代は髪を剃るのではなく抜いていた!
戦国時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは合戦で武士が髪を抜いて頭を血だらけにしていると記録している。
髻を紙で巻いて茶筅のようにした茶筅髷(信長スタイル)や、二つ折りという髪型が武士のヘアスタイルとして定着するようになった。

③江戸時代
戦が無くなり、江戸幕府は士農工商の身分制度を定着させる。
つまり、支配者の武士と農工商の被支配者に社会が二分されたわけである。
そして、被支配者層が武士の髪型をまねて、月代が庶民にも広まっていく。
やがて、月代は髪を抜くのではなく剃るのが一般化する。髷を前に曲げて頭の上に置くようになり、丁髷と呼ばれるようになったという。

  (2)へ続く・・・
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