錦糸町マルイ教室
柳 秀三 さん
1571 親不幸通り
2020年07月28日 14:32



錦糸町にあるタクシー会社でドライバーをしていたことがある俺が、錦糸町にまつわる問題を出題。
( ̄ー ̄)b
実は錦糸町には、まつわらないけど・・・
錦糸町の街を南北に横切る「親不知通り」、明治・大正期にこう呼ばれていた理由は何でしょう。
「親不知通り」とは、国道14号・京葉道路の「江東橋交差点」を南北に横切る「中之橋通り(大門通り)」のことです。
~~~~~~~~~~~~~
ということを、自分の通う丸井錦糸町教室のブログ記事のコメント欄に書いた。
とこーろが、「親不知通り」じゃなくて、「親不孝通り」だった。( ̄△ ̄)
問題を出した以上、正解を同じコメント欄に書くべきであるが、長くなりそうなので、自分のブログ記事にしてしまうことにした。
正解を発表する。
親不幸通りとは、江戸期からある浅草寺(せんそうじ)裏の新吉原遊郭と、東京になってから明治21年に根津から移転してきた洲崎遊郭(埋立地、現江東区東陽)を結ぶ通りのことである。
浅草(含む吉原)、洲崎、どちらも当時の(男たちのためのではあるが)大きな歓楽街である。
なので、その2大歓楽街を行き来するということは、散財してしまうということであり、親不孝な輩の通(みち)ということで、「親不幸通り」と呼んだ。
ということを、タクシードライバーをしていて、何かで知った。
その当時は、都の設置した道路わきの通りの名称の標識も「親不孝通り」となっていたが、いまグーグルマップを見ると、中之橋通りあるいは大門通りと出るのみである。
錦糸町の街から北上し、言問橋で隅田川を渡ると浅草であり、錦糸町から南下すると東陽1丁目(もとの洲崎)となる。
ちなみに、浅草・吉原は全国的にも有名であるし、いまでも風俗店街として残っているが、洲崎はもう無い。
太平洋戦争時の東京大空襲により洲崎は壊滅した。
当然、洲崎遊郭の名残りは何もなく、水路に囲まれた洲崎遊郭に渡るための洲崎橋の「洲崎橋跡地碑」が残るのみである。
洲崎パラダイス赤信号(日活・1956年)という映画が昭和の赤線洲崎の末期を描いている、らしい。
という、錦糸町にはあまりまつわらないクイズであった。
お粗末様でした。
柳 秀三
( ̄ー ̄)b
実は錦糸町には、まつわらないけど・・・
錦糸町の街を南北に横切る「親不知通り」、明治・大正期にこう呼ばれていた理由は何でしょう。
「親不知通り」とは、国道14号・京葉道路の「江東橋交差点」を南北に横切る「中之橋通り(大門通り)」のことです。
~~~~~~~~~~~~~
ということを、自分の通う丸井錦糸町教室のブログ記事のコメント欄に書いた。
とこーろが、「親不知通り」じゃなくて、「親不孝通り」だった。( ̄△ ̄)
問題を出した以上、正解を同じコメント欄に書くべきであるが、長くなりそうなので、自分のブログ記事にしてしまうことにした。
正解を発表する。
親不幸通りとは、江戸期からある浅草寺(せんそうじ)裏の新吉原遊郭と、東京になってから明治21年に根津から移転してきた洲崎遊郭(埋立地、現江東区東陽)を結ぶ通りのことである。
浅草(含む吉原)、洲崎、どちらも当時の(男たちのためのではあるが)大きな歓楽街である。
なので、その2大歓楽街を行き来するということは、散財してしまうということであり、親不孝な輩の通(みち)ということで、「親不幸通り」と呼んだ。
ということを、タクシードライバーをしていて、何かで知った。
その当時は、都の設置した道路わきの通りの名称の標識も「親不孝通り」となっていたが、いまグーグルマップを見ると、中之橋通りあるいは大門通りと出るのみである。
錦糸町の街から北上し、言問橋で隅田川を渡ると浅草であり、錦糸町から南下すると東陽1丁目(もとの洲崎)となる。
ちなみに、浅草・吉原は全国的にも有名であるし、いまでも風俗店街として残っているが、洲崎はもう無い。
太平洋戦争時の東京大空襲により洲崎は壊滅した。
当然、洲崎遊郭の名残りは何もなく、水路に囲まれた洲崎遊郭に渡るための洲崎橋の「洲崎橋跡地碑」が残るのみである。
洲崎パラダイス赤信号(日活・1956年)という映画が昭和の赤線洲崎の末期を描いている、らしい。
という、錦糸町にはあまりまつわらないクイズであった。
お粗末様でした。
柳 秀三
すみれさん
地番が住居表示に変わっていくのは、仕方ないですね。
そのほうが、配達や、自治体での管理が楽ですもの。
でもそれとは別に、昔の地名ってあるじゃないですか。
いわれのある、地元の人しか知らないような昔からの地名。
あれは残すべきだよなーと思います。
自治体に申し入れて地名の由来の碑を建立するとか、町会で護っていくとかになりますけど、価値観が多様化しているので、なかなか難しいですよね。
柳 秀三
地番が住居表示に変わっていくのは、仕方ないですね。
そのほうが、配達や、自治体での管理が楽ですもの。
でもそれとは別に、昔の地名ってあるじゃないですか。
いわれのある、地元の人しか知らないような昔からの地名。
あれは残すべきだよなーと思います。
自治体に申し入れて地名の由来の碑を建立するとか、町会で護っていくとかになりますけど、価値観が多様化しているので、なかなか難しいですよね。
柳 秀三
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