錦糸町マルイ教室
柳 秀三 さん
0367 木下街道
2018年09月23日 14:17
5月23日の下水道に直結後、初めての下水道料金の支払い用紙が封筒で郵送されてきた。2か月と10日で3876円である。口座振替用紙とその返信用封筒も同封されていたので、必要事項を記入後、返信用封筒に封入した。
馬込沢駅東口の郵便ポストに封筒を投函し、ファミリーマートで下水道料金を支払い、森永ウィダーinゼリー・エネルギーを購入・摂取し、さあ、早朝散歩のスタートだ。昨日の旧塚田村役場行のアップダウンで足腰にきてるので、今日は平たんな道を行くつもりである。
馬込沢駅の南を通る木下街道に出て、左に曲がる。片側一車線の狭く古い街道である。千葉は総じて、特に船橋は道路が貧弱である。この街道もトラック・特殊車両等の大型産業車が行き交う脇を、手を伸ばせば届きそうなすぐ近くを、歩行者も自転車も一人しか通れない狭い歩道を通らざるを得ない。街道脇には古い宅地が多くブロック塀が延々と続き、そして車道との間にはガードレールが無い、とても危険な道路である。と言いながら、俺もこの道路でトレーラーに最大28トンの鉄を積んで走らせていたけど。
すぐに、県道船取線との交差点、馬込十字路に到達。横断歩道を渡った先に数基の石碑がある。ステンレススチールの角柱には、その中のひとつの石碑の解説が書かれている。「戊辰戦争兵士の墓 慶応四年(1868)閏四月の戊辰戦争(市川・船橋戦争)において、下総国葛飾郡上山新田馬込沢で亡くなった官軍佐土原藩士、常吉の墓。明治十九年(1886)に千葉県が造立。船橋市教育委員会」
この街道を真っ直ぐ行くと新京成鎌ヶ谷大仏駅となる。この駅を折り返し地点と決めていたのだが、気が変わり、かなり手前で鎌ヶ谷の住宅街に右に折れる。むかし自分が新聞配達していたあたりを歩き、その新聞店の前を通る。ふたたび木下街道を横断し鎌ヶ谷コーポラスわきを通り、ユニオン通りと言う以前あった製靴会社の名で呼ばれている道路に出る。この道路は鉄道連隊の鉄道未敷設の用地にできた道路で、他の道路に比べ、明らかに無駄に道路幅が広いのである。
途中でユニフォーム姿の中学生の集団に追い抜かれた。日曜日だから試合でもあるのだろう。彼らはユニオン通りを右に進むはずだ。なぜならその先に中学校があるからだ、俺の卒業した中学校が。
俺は左に進み、そして帰宅した。11000歩だった。
柳 秀三
馬込沢駅東口の郵便ポストに封筒を投函し、ファミリーマートで下水道料金を支払い、森永ウィダーinゼリー・エネルギーを購入・摂取し、さあ、早朝散歩のスタートだ。昨日の旧塚田村役場行のアップダウンで足腰にきてるので、今日は平たんな道を行くつもりである。
馬込沢駅の南を通る木下街道に出て、左に曲がる。片側一車線の狭く古い街道である。千葉は総じて、特に船橋は道路が貧弱である。この街道もトラック・特殊車両等の大型産業車が行き交う脇を、手を伸ばせば届きそうなすぐ近くを、歩行者も自転車も一人しか通れない狭い歩道を通らざるを得ない。街道脇には古い宅地が多くブロック塀が延々と続き、そして車道との間にはガードレールが無い、とても危険な道路である。と言いながら、俺もこの道路でトレーラーに最大28トンの鉄を積んで走らせていたけど。
すぐに、県道船取線との交差点、馬込十字路に到達。横断歩道を渡った先に数基の石碑がある。ステンレススチールの角柱には、その中のひとつの石碑の解説が書かれている。「戊辰戦争兵士の墓 慶応四年(1868)閏四月の戊辰戦争(市川・船橋戦争)において、下総国葛飾郡上山新田馬込沢で亡くなった官軍佐土原藩士、常吉の墓。明治十九年(1886)に千葉県が造立。船橋市教育委員会」
この街道を真っ直ぐ行くと新京成鎌ヶ谷大仏駅となる。この駅を折り返し地点と決めていたのだが、気が変わり、かなり手前で鎌ヶ谷の住宅街に右に折れる。むかし自分が新聞配達していたあたりを歩き、その新聞店の前を通る。ふたたび木下街道を横断し鎌ヶ谷コーポラスわきを通り、ユニオン通りと言う以前あった製靴会社の名で呼ばれている道路に出る。この道路は鉄道連隊の鉄道未敷設の用地にできた道路で、他の道路に比べ、明らかに無駄に道路幅が広いのである。
途中でユニフォーム姿の中学生の集団に追い抜かれた。日曜日だから試合でもあるのだろう。彼らはユニオン通りを右に進むはずだ。なぜならその先に中学校があるからだ、俺の卒業した中学校が。
俺は左に進み、そして帰宅した。11000歩だった。
柳 秀三
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